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更新日:2023年7月27日

コラム「こんにちは、アシストです」(2023年6月号)

「ある友達の背中」~中川相談員~

空知の美唄市で私は生まれ十歳まで暮らした。市の郊外にある公園は今では道内でも人気の桜の名所となっている。公園からややはずれた一画が小高い丘になっていて洞窟露天風呂が売りの温泉施設もある。当時、その丘は子どもにとって格好のスキー場だった。「格好の」とは言うものの、リフトやロッジがあるわけでもない単なる丘だったが、小学生にとっては申し分のない遊び場だった。今から50年ほど前のことだ。

兄と同伴でなければその丘でスキーをすることは親が許さなかったので当時の自分としては特別な遊びであったし、楽しさと不安の入り混じるちょっとした冒険的な感覚もあった。兄とその友達たちと行った何度目かのスキーでの出来事が今でも忘れられない。

その日も怪我なくひとしきり楽しんだ。帰りは丘の頂から車通りの多い道路まで滑り降りるのだが、兄たちについていくのが精一杯で心もとなかった。おまけにそこまでの道順にも自信がなかったので帰途につく最初の滑り出しは緊張を伴った。「さあ帰るぞ」と兄たちが滑り出したところで事件が起きた。金具が外れ、私のスキーの片方が反対斜面に滑り出したのだ。兄の名を叫ぶとっさの判断も出来ずに滑り出したスキーを追った。幸いスキーは斜面を横に流れ途中で止まったが、頂きまで戻るまでに私は泣きだしていた。

頂から下を見ても兄たちの姿は無かった。だが、私の友達が待っていた。兄たちとのスキーに私が誘った子だ。「助かった」と思ったその時、その子はなぜか何も言わず丘を滑り始めた。慌てて金具を付け離れていくその子の後を追う。兄たちについていくほどの苦労はないが不安のほうが勝っていた私は涙が止まらない。その子の名を叫ぶが止まってくれない。必死にその子の背中を追った。車が行きかう道に出ると、その子がスキーを脱いで歩きだしたので自分もそうしたが、その子は相変わらず私を待つこともなく振り向きもせず歩き出す。だが、私が付いていけるほどの速度は保ってくれていたように思う。当時のゴム製のスキー靴といえども歩きづらさがあったのと、泣きべそをかいた気恥ずかしさもあって、我が家に着くまで私もその子との距離を縮めようとはしなかった。その子は最後までその背中で私を誘導した。心細さとその子のつれない素振りが何年たっても忘れられない。

桜の咲く季節になると、美唄へ出かけ、花見散策の後に思い出の丘に建つ温泉施設で湯に浸かる。その度に決まってあの日のことがよみがえる。「振り向かず前に進むあの子の背中は何を語ろうとしていたのだろう」という問いが浮かぶ。

その子は我が家の裏に住む同級生だった。皆と遊んでいても目立たずおとなしい子で、私とはいつでも一緒だった。ビー玉やパッチ遊びではいつも私が勝っていた。何をしても私のほうが一枚上だった。決して馬鹿にしたりからかったりはしなかったが、私にとっては優越感のようなものを感じる相手だったような気がする。もしかすると、知らず知らずのうちにその意識を匂わせていたのかもしれない。基幹産業の炭鉱が閉山し、私もその子も親が関連企業に勤めていたこともあって十歳で転居した。その子は我が家が美唄を離れる少し前に越していったが、別れの間際まで「あの日はありがとう」と言えなかった。

 

令和5年6月1日

 

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