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更新日:2023年2月8日

雪まつり

-さっぽろ雪まつりの巻-

写真:第30回岡本太郎さんデザインの「雪の女神」

第30回岡本太郎さんデザインの「雪の女神」

 

札幌の冬の祭典「雪まつり」の歴史をひもといてみました。

 

さっぽろ雪まつりは昭和25年に第1回が開催されました。当時、札幌市の経済部長であった板垣武四元市長は「当時の札幌は、まだ敗戦のショックが色濃く残っており、食料や燃料の不足な時だった。市全体の暗いムードを吹き飛ばし、少しでも明るい感じにもっていくためにはどうしたら良いか。それが市政の課題とも言える時代だった。そんなころ、映画館で見たニュースに、小樽あたりの子供が校庭の雪を固めて、ナタやノコギリで刻んで小雪像を作っているものがあった。私が学んだ札幌一中の雪戦会と雪像を結びつけたらどうだろうか」当時、観光協会の常任理事でもあった板垣経済部長のこの考えを核に雪まつりの構想は膨らんでいったと思います。詳述は省きますが(興味のある方は郷土史相談室で調べられます)、結びつけられた2つの行事、「小樽の雪像」は戦前から始まっていた「小樽市北手宮尋常小学校の雪まつり」と札幌一中の「雪戦会」、さらには中島公園で行われていた「カーニバル」が原点となり次第に雪まつりのかたちが出来ていったのです。

 

 

第一回の開催時も肝心の雪像を誰が、どう作るか、が一番の問題になりました。誰も雪像などは作ったことがなかったからです。そこで市は教委を通して中、高校生に作ってもらいたい。と学校に協力を依頼し、美術の先生の指導のもとに、市民の鑑賞に堪えうる雪像の制作を学生たちが行うことになりました。最終的に出展作は北海高「裸像」、札工高「ミロのビィナス」、道二高(現札幌西高)「羆」、北辰中「バルザック」「セザンヌのモニュマン」、向陵中「生徒の首」の6作品でした。このほか、ドッグレースやスクエアダンス、歌謡コンクールなど様々な催しが開催され5万人もの観衆を集めました。

 

この大成功により、札幌市民は暗く長い冬の生活にアクセントを付けてくれる雪まつりに大きな期待を持つようになりました。そして昭和26年の第2回から札幌市の正式な年間行事に決まり、次第に市民の間に定着していきます。一方、第7回より市内高校生の雪像作りが見られなくなります。時代は正に高度成長期に入り、大学進学率も飛躍的に増加したことが一因とも言えそうです。以後雪まつりは次第に大規模化、観光化するとともに国際的に「さっぽろ」の名を広めていきます。

 

この後、市民感情とのギャップや営利主義、国際化など数々の問題を抱えつつも、さっぽろの一大イベントとして成長を続けていきます。昭和54年、第30回の節目の会を記念して岡本太郎さんに雪像、バッジ、メダルのデザインを依頼し、岡本さんは「札幌の雪まつりには前々から関心をもち、一度はぼくの作品をいかす機会がないかと思っていた。たまたま数年前、テレビでみていたら雪まつりでぼくの太陽の女神のモチーフで作られた雪像が、自衛隊の戦車で壊され、女神の顔がごろんと転がるシーンを目にしたとき、思わず涙が出た。芸術家にとって自分の作品は子供と同じにかわいいし、大事なものだ。わずか5日間でこわされるのは寂しくてやりきれない。終了後その雪像を銅像で復元してくれるのならやり甲斐がある」と言ったそうです。当日、さっぽろ雪まつりに訪れ、自分のデザインした「雪の女神」のできばえを見て「素材は雪、私のデザインがどう変わってもいい。それよりもみんなが子供の心にかえって騒げる雪まつりはすばらしい。世界のまつりだ」と語ったと言います。デザインの銅像の建立は結局、岡本太郎さんが白紙撤回してくれたと言うことなので、おそらく作られてはいないと思いますが、このときもし作っていれば札幌にもうひとつ芸術の目玉が増えたと思い、残念でなりません。

 

この岡本太郎さんの発言に雪まつりの原点が凝縮されていると思います。なにもなかった札幌の暗く長い冬に、大人も子供の心に帰って騒げる雪まつり。市民参加や経済主義、体制を問うより、みんなが騒げる楽しい雪まつりを今後も盛大に開催してほしいと思います。(参考文献さっぽろ文庫47雪まつり、さっぽろ雪まつり30年史、同40年史)

(旧文化資料室時代に掲載していた内容を再掲載したものです。)

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