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最近、新たに史料を漁っていて、札幌の歴史に新たな1ページを加える、ある事実を発見しました。
大友亀太郎がつくった橋はどこにあったのか。トノサマバッタは札幌のどこに被害を与え、山口のバッタ塚はどのようにつくられたのか。
などなど、今まで知られていなかった事実や異なる部分を紹介するとともに、当時の住民の生活を考えてみたいと思います。
明治3年7月の布達で中断した札幌本府建設は、明治3年11月には明治4年からの再開が決定した。
それはまず9月に長官たちが札幌を視察し、次いで10月あじめに岩村判官が提出した明治3年度の予算と方針が決定し、さらに黒田清隆のいわゆる明治3年10月建議が提出され、そして西村貞陽らが建設再開を提言するという経過のなかで決定した。
その過程を資料を追いながら探る。
『明治三年の札幌 本府建設の再開』講演録(PDF:1,926KB)
明治3年2月、札幌での街づくりを開始した島判官が去った後、岩村判官が西地の状況視察に来た。札幌にいた十文字大主典はその指示を仰ぐために小樽に赴き岩村と会談し、さらに様々な方針伺を出して岩村判官の判断を仰いだ。
明治4年春に岩村判官が来札して札幌の街並みを碁盤の目状にする方針で再度街づくりが開始される。その間、札幌はどのようになっていたのだろうか?
そのことについて資料に基づいて調べてみる。
『明治三年の札幌 島判官が去って』講演録(PDF:4,753KB)
島判官が開拓使をやめることになった理由について、本府建設に金を遣いすぎたことなのか、その他にも理由があるのか、いろいろな資料を読んで考えてみる。
~夢と期待と権益、そしてグローバル~
平成30年は2月に平昌で冬季オリンピック、6月にはロシアでサッカーワールドカップが開催されました。
札幌は、過去にこの大きなスポーツ大会のほか、いくつもの国際スポーツ・イベントを開催したのをご存じですか?華やかな国際スポーツ・イベントでは、さまざまな運営の苦労があり、関係団体との難しい交渉が微妙な国際関係の中で繰り広げられています。
そのような裏事情をお話ししながら、札幌はなぜ何度も国際スポーツ大会を開催できたのか解き明かします。
『国際スポーツ・イベントの裏側』講演録(PDF:1,369KB)
島判官は明治2年11月半ばから自分の住居をはじめとして役人の家を建設することで札幌での本府建設を開始した。
さらに銭函との道路を開削し、有珠などから馬を札幌に移して牧馬場をつくり、開拓のための物資調達と移民募集を東北、北陸から行った。
島判官は何故急に本府建設を開始し、移民募集などを行ったのか、考えてみたい。
『島判官の本府建設と札幌経営』講演録(PDF:2,195KB)
開拓使の判官・島義勇は明治2年10月12日に銭函へ着いてから、札幌を去る明治3年2月11日まで札幌で開拓の本拠地の建設を進めました。
神社建設予定地の視察、本府建設予定地の縄張り、兵部省との交渉、場所請負人たちへの指示など忙しく活動していたとされます。
それらの活動を信頼できる資料でどこまで具体的にできるか、探ります。
ニ代目となる札幌市庁舎は、昭和12年4月に落成式を行いました。
その後、この北1条西4丁目の4階建てビルは、壁面の垂れ幕の記憶とともに、昭和46年に現庁舎へ移転するまで市民に親しまれる存在でした。
今回の講演では、庁舎の建築計画から竣工・移転までについて、当時の市民と市庁舎の関係にクローズアップしながら見ていきます。
『二代目市庁舎への「改築移転」:昭和9-12年』講演録(前半)(PDF:1,123KB)
札幌に本府を建設した島義勇は、明治2年5月には蝦夷開拓御用掛に任命されており、蝦夷地開拓に関する意見書のとりまとめや蝦夷地の国郡設置案作成などを行いました。
そして同年7月8日、職員令によって設置された開拓使の長官には鍋島直正が任命されました。
新たに設置された開拓使は、蝦夷開拓御用掛とどのような関係になっていくのか探ります。
昭和期の戦争は、地域の市民生活にも大きな影響を与える「総力戦」でした。
札幌でも「供出」という名目で、さまざまな生活物資・財産が市民から奪われていきました。
その実態を当時の記録や証言からひもとき、戦争が市民生活にどのような影を落としたのか探っていきます。
『戦時期の物資供出と札幌市民』講演録(前半)(PDF:3,584KB)
札幌市では、昭和35年の「主要事業10年計画」以降、長期計画を策定し、都市整備を進めてきました。
その過程では、河川の汚染や都市型水害などの都市問題が発生しましたが、それらを解決しながら進んでゆきました。
札幌市が歩んできた都市整備についてひもときます。
『長期計画による都市整備と住民の生活』講演録(PDF:2,464KB)
大正11年の札幌市制が施行の後、都市整備に関する法律が施行され、計画的な街づくりが行われるようになり、道路舗装や下水道などの整備が始まりました。それは、昭和初期の不況対策のためでもありました。
当時の都市整備の様子や住民の反応を探ります。
明治42年の北海道庁火災のあとに道庁を旭川へ移そうという動きがありました。
しかしそれは現実とはならず、大正から昭和にかけて、政治・経済の中枢機能は札幌に集中し、人口も急増していきます。
全道一の人口を擁する大都市札幌、その発展の背景を探ります。
『札幌区(市)が大都市となるために』講演録(前半)(PDF:1,809KB)
明治25年の大火の後、札幌がさびれるのではないかという意見が一部でささやかれます。
なぜそのように思われたのでしょうか。
しかし実際には明治20年代以降の札幌(区)は、さびれるどころか人口が急増し、さまざまな都市問題が発生します。
札幌(区)はそれらの問題をどのように解決しようとしたのか、当時の事情を考えてみます。
『札幌区の人口急増と都市整備』講演録(前半)(PDF:1,730KB)
明治4年の札幌の都市づくりの計画図に、はじめて碁盤の目状の図面が出てきます。
しかしそれは現在の街並みとは異なったものでした。
なぜ今のような碁盤の目状の街並みとなったのかを考えてみます。
またその街並みを形成する中で起こった大事件『御用火事』とはどのようなものだったのか、その実態に迫ります。
『碁盤の目状の街並みと御用火事』講演録(前半)(PDF:2,389KB)
明治2年初冬、開拓使の判官・島義勇が札幌に来て本府づくりを始めた。
それが大都市札幌の起点となった。
しかし札幌には既にアイヌの人々が暮らし、幕末には和人たちによる開拓も始まっていた。
島判官は本府建設地としてどうしてこの地を選んだのだろうか。
また、島判官はどのような構想を持って街づくりをはじめたのだろうか。
島判官の街づくり構想を様々な資料から考えてみる。
『さっぽろの街づくりの始め』講演録(PDF:1,761KB)
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