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○真砂さん 皆さん、こんにちは。
サッポロスマイルトークにようこそお越しくださいました。
今日は、3連休の最後の日になりますね。
アトリウムには天窓があります。夕方になってきて、光がやや優しくなっていますけれども、降り注ぐ光を浴びながら、今日は皆さんと楽しく優しいひとときを過ごしてまいりたいと思います。
さて、サッポロスマイルトークというイベントが初めてという方はいますか。
今日は、特別に場所が変わっているので、初めてという方も多いかもしれませんね。
2度目以上で、何度か来ているよという方はいますか。
サッポロスマイルトークというイベントは、札幌のさまざまなテーマを取り上げまして、市民と市長が札幌の今と未来を語り合うという機会で、年に3回ほど行われているトークイベントです。今回は、その中でもスペシャルということで、サッポロファクトリーのアトリウムで初開催となります。
さて、今日は、何の日でしょうか。わかる人はいますか。
「体育の日」ですね。
そのため、「ウインタースポーツのまち さっぽろ~2030年冬季オリンピック・パラリンピックの招致を目指して~」と題しまして、ウインタースポーツにゆかりのある皆さんにそろっていただきました。
おなじみの方々でして、ときめいていらっしゃる方も多いと思いますけれども、後ほど皆さんにはたっぷりとお話を伺います。今日は、ウインタースポーツをテーマに、札幌の未来について盛り上がっていきたいと思います。
申し遅れましたが、本日の司会を務めます真砂徳子と申します。どうぞよろしくお願いいたします。(拍手)
では、お座りの皆さんから一言ずつ自己紹介をしていただきたいと思います。
まず、私のそばに座っている永瀬さんからお願いできますか。
○永瀬さん 皆さん、こんにちは。
パラリンピックのアイスホッケーでゴールキーパーのポジションをやっていました永瀬充です。
私は、旭川が地元でして、20年ぶりぐらいにファクトリーに来ました。ここの雰囲気の映像は頭にあったのですが、どうやって来るかわかりませんでした。懐かしみながらやってきました。
今日は、よろしくお願いします。
○真砂さん よろしくお願いします。
永瀬さんは、2010年のバンクーバーパラリンピックのアイスホッケーの銀メダリストで、パラリンピアンでいらっしゃいます。今は、パラスポーツの専門家としてもご活躍されています。
では、次は、全日本スキー連盟ノルディック複合強化指定選手でいらっしゃるお2人です。
葛西春香さんと葛西優奈さん、自己紹介をお願いします。
○葛西春香さん 東海大学付属札幌高校でノルディック複合をやっています葛西春香です。よろしくお願いします。
○葛西優奈さん こんにちは。
東海大学付属札幌高校1年で、姉の葛西優奈です。今日は、よろしくお願いします。
○真砂さん ご覧のとおり、お2人は双子です。髪の毛が肩まで長い春香さんが妹で、ショートカットの優奈さんがお姉さんですね。2人とも同じ競技で未来のオリンピアンを目指しているというお話を今日はたっぷり伺いたいと思います。
そして、おなじみの原田さん、よろしくお願いします。
○原田さん 「ふなきー」で有名な原田雅彦です。
葛西さん2人とは高校が一緒ですね。名前が変わってしまいましたけれども、私は東海第四という昔の高校で、先輩と後輩に当たります。
今日は、どうぞよろしくお願いいたします。
○真砂さん よろしくお願いいたします。
原田さんは、1998年の長野オリンピックのスキージャンプ団体の金メダリストでいらっしゃいます。5大会連続でオリンピックに出られているというミスタースキージャンパー、ミスターオリンピアンと言ってもいいのではないでしょうか。
では、ここで市長からも一言ご挨拶をお願いいたします。
○秋元市長 皆さん、こんにちは。札幌市長の秋元克広でございます。
昔、スキージャンプをされている秋元という同じ名前の選手がいらっしゃいましたけれども、私は飛んでおりません。
今日は、こうしてサッポロファクトリーにお邪魔をさせていただいております。
司会の真砂さんからお話しいただきましたように、サッポロスマイルトークとは、いつも地下歩行空間や地下街のオーロラタウンなどでさせていただいているのですけれども、こういうオープンな場所で、いろいろな方に来ていただいて、札幌市に関わるさまざまなお話を一緒にしようというものです。そういう意味では、ふらっと街なかを歩いていて、何をやっているのだろうなとご覧いただく方も含めて、皆さんといろいろな市政の話題を一緒に語っていければなと思っています。
今年度は2回目になりますけれども、サッポロファクトリーにお邪魔をするのは初めてです。今日は、「ウインタースポーツのまち さっぽろ」をテーマにお話をさせていただこうと思っております。
今、ラグビーワールドカップで日本中が盛り上がっておりますけれども、ラグビーのルールを知らない人でも盛り上がっているのではないかなと思います。スポーツが持っている力というものがありまして、スポーツの試合を見ていると、ものすごく感動する、感激するということがありますよね。
1972年というと、まだ生まれていなかった方も随分いらっしゃると思うのですが、実は、その年に札幌で冬季オリンピックがありました。そして、今、札幌市では、2030年の冬季オリンピック・パラリンピックの開催を目指しております。ウインタースポーツが盛んな北海道でありますけれども、そういったことを通して、この札幌を世界に発信したいと思っています。そして、今日は、アスリートの皆さんがいらっしゃっていますけれども、こういった方々の活躍の場面をつくって、みんなで一緒に盛り上げていければなと思っております。
今日は、そうしたオリンピックやパラリンピックにまつわる話をできればと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
○真砂さん よろしくお願いいたします。
今、市長がおっしゃったように、スポーツというのは、老若男女、あるいは、得意でも得意ではなくても、みんなを夢中にさせる魅力がありますから、大会が札幌でなんて考えると、わくわくしてきますね。そんな話につながるお話を皆さんからいただきたいと思います。
では、トークセッションを進めてまいりますね。
まず、そもそもの話から皆さんに伺ってみたいと思います。
なぜ今やっている競技を始めたのか、そのきっかけを教えていただけないでしょうか。
では、原田さんからよろしくお願いします。
○原田さん ここから200キロメートル北に上川町がございます。層雲峡温泉で有名な上川町ですと言うとみんなわかるかと思います。上川町はそれぐらい小さなまちなのですけれども、最近は高梨沙羅ちゃんの出身地ということで非常に有名です。
そこに子どもの小さなジャンプ台があったのです。皆さんもご存じの大倉山や宮の森のような大きな施設ではなく、子どもが飛べるもので、飛んでも最高で20メートルぐらいかな。そういった小さなジャンプ台がありました。
全道的には、有名な下川町、それから、小樽、余市あたりですか、札幌にも荒井山に子どもの施設があります。多分、私と同じ年代の方ならわかると思うのですが、札幌オリンピックの強化のためにつくられたというゆかりのあるジャンプ台なのですが、私はそれを使ってジャンプを知ることになったのです。
○真砂さん ちなみに、そのころ、原田さんはお幾つですか。
○原田さん 小学生です。ですから、かなり前ですね。札幌オリンピックの日の丸を見てジャンプを始めた先輩たちのちょうど一番最後ぐらいだと思うのです。
○真砂さん つまり、環境がそばにあったのですね。
○原田さん そうです。
○真砂さん 皆さん、後ろをご覧いただけますか。すーっと伸びている階段がありますよね。伺ったところ、あれぐらいの高さの山だったそうですね。
○原田さん そうです。これぐらいから始めるのですよ。いきなり大倉山を飛ぶわけではないのです。とにかく、子どものジャンプ台があって、そこで初めてふわっと浮く感覚を覚えたのですね。
○真砂さん その感動がオリンピアンへの道につながっていったということなのですね。
○原田さん そうです。
ただ、初めて飛ぶときは怖かったです。何が起こるかがわからないので、非常に怖かったのを覚えていますけれども、覚悟を決めて飛びました。飛んだというか、さっと落ちてきただけです。でも、ふわーっと浮いて、うわっ、飛んだというのを感じたのですよ。それで、これは楽しい、次はもっと飛びたいなと思って、選手をずっと続けてきたのです。
○真砂さん ふわっと浮いた楽しさが味わいたくて飛び続けてきたのですね。
○原田さん そうなのです。
ジャンプを飛んだ人は本当に少ないので、説明するのが大変なのですよ。でもね今日は、たまたま飛んだ人が2人います。本当に気持ちいいのです。
私は、鳥になった気分だとテレビで大げさに言います。もちろん、鳥ではないからわかりませんけれども、翼を広げて、ふわっと風に乗る感じです。これは、飛んだ人にしかわからない気持ち良さなのです。
○真砂さん それで人生そのものをずっとジャンプに捧げているということですね。
○原田さん 選手になって、それをずっと追求した非常に幸せな競技生活でした。
○真砂さん 市長、札幌にもあるというお話でしたが、そばにそうした環境があることは大事なのですね。
○秋元市長 そうですね。スキーやスケートもそうです。札幌は雪が多いので、スキーをやる人が多いですけれども、十勝だとスケートの選手が多いのですよね。やっぱり、身近に、小さなときからできる環境があるということは大きいと思いますね。
○真砂さん 札幌にもありますから、まだやったことがない人で、原田さんのお話を聞いて、チャレンジする方がふえたらいいなと思いました。
では、永瀬さん、お願いできますか。
○永瀬さん 私は、子どものころ、もともと障がいはなかったのですね。先ほどもお話ししましたが、旭川が地元なのですけれども、中学、高校の部活でバスケットボールをやっていまして、高校1年生のちょうど今ぐらいの寒くなってきたかなという頃に足に違和感が出てきたのです。それは末梢神経の難病が原因だったのですが、発症して、バスケができなくなってしまったのです。
今、私は43歳なのですけれども、それが15歳のことでした。ですから、もう30年近く前にはなります。でも、パラリンピックは、当時、テレビや新聞でもやっていなかったので、私は全然知らなかったのです。それで、何もできないし、夢も希望もない、どうしようと思いながら、4年ぐらいは悶々としていました。その間、2回ぐらい入院もしたのですが、高校を出た翌年の19歳のときに初めてテレビでパラリンピックのスポーツをやっていて、雑誌が出たり、新聞で紹介されるようになって、こんなものがあるのだと知ったのです。
それは、ちょうど1995年でした。そして、その3年後、長野でオリンピックとパラリンピックがあるよ、日本で初の冬のパラリンピックをやるよということで、今の東京ほどではありませんが、当時は画期的なことだと話題になっていたのです。そして、当時はアイススレッジホッケーと言われていたのですけれども、パラアイスホッケーの北海道のチームがあるということも知りました。
それまで自分もスポーツをやっていましたし、アイスホッケーも好きだったので、長野パラリンピックまで3年あるかないかですが、やれば、もしかしたら出られるかもしれないと思ったのです。
というのは、僕の前に先輩がいないのです。僕が第1号なのですね。数カ月のずれはありますけれども、ほぼ第1世代なのです。それで、病気になって、障がいを持ったけれども、スポーツができるという楽しさと同時に、日本でやるパラリンピックに出られるかもということで一気にのめり込んでいって、いい感じにとんとん拍子で行ったのです。それがきっかけですね。
1998年、長野パラリンピックに出場できたのですけれども、その数週間前に、先ほどの原田さんですよ。あの「ふなきー」はテレビで見ていました。自分もその数週間後に行くことが決まっていましたが、あれで勇気をと言ったら失礼ですが、エネルギーをもらったというか、自分も頑張らなければと思いました。その方と一緒に並んでスポーツを語れるというのはすごくうれしいです。
でも、日本でやるから私みたいな者が出てくるわけです。特に、障がい者スポーツというのは日本はまだまだ遅れているのですね。多分、今ここにいらっしゃる方はほぼ全員がパラリンピックを知っていると思うのですけれども、20年前は全然知られていませんでした。そういう中で長野があり、東京がありとなっているのです。そして、今度、札幌に向かうというときには、特に大きな力となるのかなと思います。
○真砂さん 永瀬さんは、まだパラリンピックというものが知られていない中、たまたま日本で開催するタイミングでパラスポーツに出会って、それが追い風になったということですね。
○永瀬さん そうですね。本当にたまたまです。いろいろとあることはわかっていたのですけれども、どこに行って、何をしたらいいかというのは、インターネットもなかったというか、携帯電話もなかったから、知ることができなかったのです。
ポケベルの時代ですよ。その時代に情報を得るのは結構大変で、あちこち調べましたね。たまたま、北海道新聞の夕刊に北海道にもチームができたということが出ていて、そこに書いてあった電話番号に電話をして、自分の人生が変わっていきました。それは、人生を大きく変えてくれた出会いでしたね。
○真砂さん 活力そのものになったのですね。
○永瀬さん はい。それがなかったら、多分、今、私はここにいなかったですし、全く違う人生だったかなと思いますね。
○真砂さん 永瀬さんのお話を聞いていると、パラスポーツの影響力みたいなものがひしひしと伝わってきますね。
では、葛西さんのお2人、複合の競技を始めてまだ何年かしかたっていないのかなと思うのですけれども、何がきっかけで始めたのかを教えていただけますか。
お姉さんの優奈さん。
○葛西優奈さん 私の叔母が競技者で、スキージャンプをやっていたのですね。小さいころ、大倉山ジャンプ競技場や宮の森ジャンプ競技場などに叔母の試合の応援をしに行っていたのですが、叔母が飛んでいるのを見て、自分もジャンプを飛んでみたいな、空を飛んでみたいなと思って、この競技を始めました。
○真砂さん 春香さんはどうですか。
○葛西春香さん 私は、最初はジャンプをやらないと言っていたのですけれども、優奈が先に始めて、ジャンプ台に行って、自分も体験させてもらったときに、すごく楽しくて始めました。
○真砂さん 2人の場合は、叔母様がスキージャンプの選手で、しかも、原田さん、長野オリンピックのテストジャンパーもされた方なのですね。
○原田さん そうです。
女子選手の山田いずみさんをご存じでしょうか。あの世代の選手で、山田いずみさんとライバル関係にあった葛西賀子さんという方です。我々と一緒にトレーニングもしましたが、女子ジャンプの先駆けの人なのです。
○真砂さん つまり、ウインタースポーツのスターが親戚だったということですよね。
○原田さん そうなの。実は、そこにいらっしゃるのです。
○真砂さん 立っていただいてよろしいですか。
ありがとうございます。(拍手)
○原田さん 選手のときには首に大けがをされたのですよ。でも、そこから復帰をされたのです。そのときには本当に感動しました。
○真砂さん そういった苦難も乗り越えてスポーツをされてきたのですね。
叔母様からお2人に勧めたなんてことはあるのですか。
それはないとおっしゃっていますね。では、2人は格好いい叔母様の姿を見て、やってみたいなと思ったわけですね。
○葛西優奈さん そうです。
○真砂さん なるほど、背中が語っていたのですね。
でも、今やっているのは複合の競技ですよね。それをやろうと思ったのはなぜなのですか。
○葛西春香さん 小学校4年生のときにクロスカントリーをやってみないかとコーチから勧められたのです。小学生のときは、鬼ごっことかサッカーとかに楽しんで取り組んでいたのですけれども、それで中学校1年生のときに複合を本格的にやり始めました。
○真砂さん それは2人とも同じような気持ちですか。
○葛西春香さん はい。
○真砂さん それから強化指定選手になるまで実力をつけてきたのですね。
○永瀬さん 複合となったら、道具は、ジャンプ用とクロカン用で、しかも、掛ける2ですよね。お父さんの車とかで行くのかな。親御さんが送っていってくれたりすると思うのですが、2人分となると、相当の荷物になりますね。
○葛西優奈さん そうですね。
○真砂さん では、家族一丸となって複合競技を頑張っているという感じなのですね。
○葛西優奈さん 頑張っています。
○真砂さん 今、原田さんから、飛ぶときは気持ちいいのだよとあり、優奈さんも春香さんもそうですねという話でしたけれども、怖くはないのですか。
○葛西優奈さん 私は、最初にジャンプを初めて飛んだときは全く怖くなかったのですね。それよりも飛んだときに空中に浮く感じが本当に楽しくて、それでもうやめられない感じです。
○真砂さん 楽しくてやめられないと優奈さんはおっしゃっていますけれども、ご覧いただけますでしょうか。
これは、大倉山のスキージャンプスタジアムです。原田さんもそうですけれども、どれぐらいの高さから2人が飛んでいるかがわかる写真です。
これは、断面図になっているのですか。
○原田さん そうですね。こういうふうに見たらすごく高いですけれども、我々は、ジャンプ台をはって落ちてくるのですよ。だから、そんなに高く思いません。
○永瀬さん 原田さん、高いですよ。私は、何回もあそこの山に行って上から見ますけれども、スタートのところに一歩を踏み出すだけでも怖いのではないかなと思いますよ。
○真砂さん 永瀬さん、一番てっぺんではなくて、下からですよね。
○永瀬さん リフトに乗って上まで行けて、ここから行くのだよというところが見えるのです。
○真砂さん そこまでは行きましたか。
○永瀬さん そこまでは行って、見て、大通公園に向かって飛ぶのだよという案内を受けました。
○原田さん 私は、現役をやめて十数年がたつのですが、もう飛べないです。
○真砂さん 本当ですか。飛べそうな気がしますけれども。
○原田さん 高さもそうなのですけれども、やっぱりスピードがありますからね。90キロも出まして、ものすごく速いのです。
ぜひジャンプ台に来てもらえればと思います。近づくと、選手が風をわーっと切っている音も聞こえます。迫力がありますよ。
○永瀬さん 原田さんは、現役のとき、最長で何メートル飛ばれたのでしたか。
○原田さん 時代も時代だったということもありますが、これよりまだ大きいジャンプ台が外国にはあるのですよ。フライングというものを聞いたことがありますか。フライングジャンプといって、実は、この倍もあって、スピードも100キロ以上出るのですよ。そこでは198メートルでした。
ものすごい気持ちよかったですよ。
○真砂さん 数字を聞くだけで怖くなりますね。
○原田さん 200メートルまであと2メートルだったのですよ。
でも、今や、最近の選手は250メートル近く飛ぶようになりましたよ。あれから技術もどんどん進化して、ジャンプも迫力があるようになっていますね。
○永瀬さん 飛び出すときに、行くか行かないかがわかるのですか。
1998年のとき、1本目のときは落ちてしまったではないですか。それで、みんなは4年前を思い出していたようですよね。でも、2本目がとてつもないジャンプでしたよね。あれがすごく印象に残っています。
○原田さん 飛び出したら、あっ、これは距離が伸びるなというのがわかります。
○真砂さん 今、永瀬さんがお話ししているのは、リレハンメルの後の長野オリンピックのことですね。
○永瀬さん はい、長野オリンピックのときのことです。
○原田さん ジャンプには助走のときにものすごくスピードが必要なのです。あのときはものすごく雪が降っていまして、スピードを奪われてしまったのですね。ですから、助走しているときに、もう既にこれは距離が伸びないかなというのがわかったのです。そして、2回目のときは、全ての条件がそろいましたから、とにかく思い切ってタイミングを合わせるだけでした。ここで飛び出したら、距離が伸びるなと思ったことを覚えています。
○真砂さん ご記憶がある方は思い出したでしょうか。あっ、あのときだなとわかったと思うのです。長野オリンピックの原田選手のジャンプには全世界が固唾をのんで、見守っていましたよね。
市長、あれは本当に緊張感のあるシーンでしたよね。
○秋元市長 1972年の札幌開催のときもそうですけれども、やはり、地元で日本の選手が活躍する場面は、現地で見ていれば特にそうでしょうが、映像を通じても、あの興奮というのは何なのでしょうね。何とも言えない高揚感がありますし、自分が飛んでいるような気持ちでした。
ですから、原田さんが「ふなきー」と言った気持ちがよくわかりますよ。
○真砂さん あの日、全国民が「ふなきー」と言いましたね。
○永瀬さん 優奈さん、春香さんは、もちろん生まれていないから、年末にテレビを見るときに出てくるぐらいかなと思うけれども、原田さんのその時代のことはいつ頃知ったのですか。
○葛西優奈さん 私たちは、ジャンプを始めて、いろんなところで動画を見たり、お話を聞いたりして、昔の歴史を知りました。
○真砂さん では、長野オリンピックの映像も見ていますか。
○葛西優奈さん 見たことは何度かあります。
○真砂さん 春香さんもですか。
○葛西春香さん 私も同じです。
○真砂さん では、今、原田さんが説明していたあの状況は見ていましたか。
○葛西春香さん 見ました。
○真砂さん 結果がわかっていても緊張しますよね。
○葛西春香さん はい。
○永瀬さん もしあそこに自分がいたらと思ったら、どうですか。
○葛西春香さん 1本目の悪条件の中だったら距離もあまり伸びないと思うし、たくさんの人が見ている中で、すごく緊張しただろうなと思います。
○真砂さん 優奈さんもそう思われましたか。
○葛西優奈さん はい。
○永瀬さん お2人に聞きたいのですが、先ほど原田さんがいきなりあそこを飛べるわけではないよと言っていましたけれども、2人が初めて大倉山を飛んだのは何年生のときなのですか。
○原田さん 私が大倉山を飛んだのは高校生になってからですね。
○永瀬さん 2人は、今、高校1年生ですよね。
○葛西春香さん 私たちは、去年の10月の試合で始めて飛びました。
○真砂さん 高校生になって初めてですか。
○葛西春香さん 中学校3年生のときに飛びました。
○永瀬さん 大倉山を初めて飛んだ感想はどうなのですか。
○葛西優奈さん まず、上にいたときは、思ったより怖くなかったのが印象的です。
○真砂さん すごい。
○永瀬さん ジャンプをやっている人はちょっと違いますよね。
○真砂さん 心臓に毛が生えていますね。そこから素質がなくてはいけない感じですね。
○秋元市長 そこに立って怖がっているようではだめなのかもしれないですね。
○真砂さん そのとおりですね。逃げて帰るようではだめですね。
○葛西優奈さん あと、スピードは、ほかのジャンプ台とは全然違ったのですけれども、飛び出したときは、いつもと全然違う高さだったので、そこもすごく楽しかったです。
○真砂さん 春香さんもですか。
○葛西春香さん 助走路の長さがほかのジャンプ台と違ってすごく長かったので、やっぱりラージヒルは大きさが違うなと思いました。
○真砂さん 原田さんや、春香さん、優奈さんのように、実際に飛ぶというのはそう誰もが経験できるわけではないのですけれども、大倉山に行くと、オリンピックミュージアムで疑似体験みたいなこともできるのですね。
○秋元市長 シミュレーターと言って、飛ぶのを疑似体験できるものがありまして、私はあれで飛んだことはありますよ。実は、原田さんに挑戦しました。ただ、あれでも飛び出すタイミングは難しいですね。
○真砂さん しかも、孤独といいますか、ひとりで向かって、ひとりで決めて飛んでいくわけではないですか。その緊張感を想像すると、この辺がうっとしてきます。見ているほうも緊張しますよね。だからこそ感動につながっているのだと思います。
永瀬さんから原田さんにオリンピックの話を聞いてくださったのですが、実は、お2人には本物のメダルを持ってきていただいていると聞いています。
会場の皆さんにもご披露いただけますか。
○永瀬さん まず、原田さんから。
○原田さん 我々は、本当にこれを目標に頑張るのです。そして、皆さんに見ていただくと、喜ぶのですよ。これが金メダルか、原田さん、良かったねと言ってくれるのですよね。金メダルをとって良かったなと非常に思いますね。
○真砂さん 自分がとったときもそうだし、それを見てくださる方の喜ぶ顔を見られるのですね。
○原田さん (金メダルを持つ葛西優奈さんに)かじってもいいですよ。
○真砂さん 金色に輝くこちらが長野オリンピックのメダルですね。
そして、永瀬さんは、バンクーバーパラリンピックですね。
あっ、デザインが違うのですね。
○永瀬さん はい。全然違います。
色ももちろん、金と銀で違うのです。この前、東京オリンピック・パラリンピックのメダルの発表がありましたけれども、プチ知識をご紹介します。
夏のオリンピックの表は、必ず勝利の女神のニケと決まっているのです。でも、冬は自由なのです。形も結構自由なのです。
原田さん、それは中身は何でしたか。
○原田さん これは、長野の伝統的なうるしを塗ってあるのです。
○永瀬さん 私のバンクーバーときは、完全に銀だけなのですけれども、波を打っているので、子どもたちにぬれ煎餅みたいだとたまに言われます。
オリパラの関係で言いますと、オリンピックとパラリンピックが同じところでやっていることがすごく当たり前のような感じですけれども、ついちょっと前までは全く別でやっていて、組織委員会も別々だったのです。今、新聞やニュースでオリンピック・パラリンピックと見ますけれども、完全に別々で、オリンピックで会場を使った後、我々が貸してくださいと言って使っていただけだったのです。ですから、運営している人も全然違っていまして、デザイナーや商標の権利も全く違うのです。長野のときもあんなに格好いいものではありませんでした。
ただ、冬のバンクーバー大会からオリンピック・パラリンピックの組織委員会が一つになって、一体的にやっていこうとなりました。このとき、浅田真央選手や長島圭一郎選手も銀メダルをとられたのですけれども、オリンピックは丸で、パラリンピックは四角というちょっとした違いはあるのですけれども、基本コンセプトは同じくなりました。このように、歴史的に見ると、いろんな違いがわかります。
そして、何でうにゃうにゃしているのかを聞くと、バンクーバーは自然が豊富で、波や山をイメージしてこういうふうになっていまして、先ほどの原田さんからもありましたけれども、伝統工芸というものも使われます。
ですから、どうせ札幌でやるのだったら、どんなものが札幌らしい、北海道らしいのかを考えるのもおもしろいのではないかなと思いますね。
○真砂さん 市長、そういう視点でオリンピックやウインタースポーツに親しんでいくのもいいですよね。
○秋元市長 さっき永瀬さんからお話がありましたが、札幌は、1972年、昭和47年にオリンピックをやっていますけれども、そのときは、パラリンピックをやっていないのです。というか、そのときは冬のパラリンピックがまだなかったのですよね。
○永瀬さん そうなのです。1964年の夏の東京オリンピックの後には東京パラリンピックがあったのですけれども、実は、冬の第1回は1976年からだったのですよ。ですから、札幌はやらなかったわけではなく、存在しなかったのですね。
○秋元市長 今はだんだんと状況が変わってきてというか、今、永瀬さんのお話にもありましたけれども、今、パラリンピックも一緒にやっていますよね。組織委員会というか、運営も一緒で、メダルも同じようにとなっていますが、まさに障がいのある人もない人も関係なく、スポーツという切り口で一緒にやりましょうというふうに変わってきたのです。
また、特に車椅子で移動される方はわかるかと思いますが、雪道は結構大変なのです。つまり、障がいを持った方々でも移動しやすく、日常的な生活がしやすくなる環境が整っていないとパラリンピックをやる都市としての備えがないということになるのです。そういう意味では、パラリンピックをやることで社会が変わっていくきっかけになるのではないかなと思います。
○真砂さん まちづくりの大きなきっかけになるということですね。
では、春香さん、優奈さんは、今、実際にメダルを手にしてみたではないですか。その重みなども残っていると思うのですけれども、せっかくですから、この機会に、パラリンピアンとオリンピアンのお2人に何か質問はありませんか。
○葛西春香さん オリンピックの舞台というのは特別だと思うのですけれども、ほかの試合と違って、試合の前とかはやっぱり気持ちが変わりましたか。
○真砂さん では、原田さんに伺いましょう。オリンピックはほかの試合と比べて特別な気持ちになるのですか。
○原田さん もちろんです。選手は、それをプレッシャーと感じないように、緊張しないように、それを避けようとするのですけれども、しつこいぐらいどこに行ってもオリンピックのマークがあるわけですよ。こんなペットボトルにまでオリンピックのマークがつけられているのです。僕は5回も出ましたけれども、それは感じましたね。それに、オリンピック選手だというふうにも見られるようになるのです。
もちろん、夢であるオリンピックに選手として選ばれ、出るのですけれども、期待されるプレッシャーをひしひしと感じましたね。今となっては、スポーツ選手としてそれは大変幸せなことだったなと思います。というのは、そんな体験はなかなかできないのですよ。
オリンピックに出られるのは限られた人数ですから、そこに選手として出られて、ましてや、地元のオリンピックだったわけです。日本人である私が日本で行われるオリンピックに選手として出る、こんなことは奇跡で、すばらしい体験だったなと思います。
ぜひ、2人にもオリンピックに出て、それを体験してもらえればと思います。すると、競技にも人生にも非常にプラスになると思いますね。
○真砂さん ちなみに、その緊張感はどのように克服したのですか。
○原田さん もう無理です。ですから、それを受けとめるのです。
オリンピックなのだと思えるようになったら、必ずいい成績が出せますよ。
○真砂さん 逆に楽しむように、鼓舞する感じですね。
○原田さん 楽しんでくださいとよく言うのですけれども、それもなかなか大変です。うまくいったから楽しかったと言えるのですよ。オリンピックで結果を出すためには、オリンピックを制覇しようと思うには地道な努力が必要で、これはスポーツ選手として当然のことですが、葛西さんらしいパフォーマンスを、ぜひ自信にして、オリンピックに出てほしいですよね。
○真砂さん その日のために日々積み重ねていってくださいね。
では、同じ質問になるのですが、永瀬さん、いかがですか。
○永瀬さん 特に、パラリンピックは、毎回、注目度がどんどん上がっていて、長野パラリンピックのときからすると、それこそ、来年の東京なんて、もう日本社会ががらっと変わるくらい注目度が上がっているのです。
2010年は、東京が決まる前だったので、それほどでもなかったのですけれども、やっぱり、関係者の中では徐々に広まっていきました。しかも、私もそうですし、アイスホッケーの日本チームにとっては4回目の大会だったのです。そして、過去3回はずっと5位でした。でも、ホッケーは唯一のチーム競技ですし、ずっと予選から戦っていくというストーリーもあるのです。
それで、2試合目ぐらいまでは、試合が終わった後には、ミックスゾーンとかにメディアもいっぱいいたのですけれども、負けていくと、だんだんメディアが減っていくのです。そして、最終戦になると、仲のいいメディアと北海道新聞しかいないぐらいになっていました。結局、最後はテレビにも出なくなっていきます。
多分、結果がよければ、テレビに出て、あっ、原田さんだと思うけれども、オリンピックには選手がたくさん行っている中で、実は、テレビに出ている選手は、やっぱりメダルをとったり、結果を残している人だけなのです。それはすごく悔しいですが、選手としては勝たなければいけないのです。ですから、4回目のときはすごくいろんなものを背負い込みました。
緊張感で言うと、パラのほうでもほかの大会とは全然違います。ですから、逆に、いろいろな大会のとき、ウオーミングアップでも追い込み過ぎてみるというか、緊張感のトレーニングみたいなものもしていましたね。だから、すごくアップし過ぎて、体温が上がったり、気持ちが上がり過ぎてだめだったこともありますし、逆にふにゃふにゃでやってみたら力が出せなかったなということもありました。その中でどうするのがいいのかをつくっていって、最終的に自分の中でこういうウオーミングアップや気持ちの上げ方を、としていくのです。つまり、緊張感を持たないということはできないので、どういうふうに緊張感とうまくつき合っていくかです。
バンクーバー大会は5試合があったのですけれども、初戦は緊張しまくりで、ぼろぼろで、ミスをして点をとられてしまいました。でも、チームメートが点をとってくれて、逆転して勝てたのですけれども、ハーフタイムでベンチに帰るたびに、チームメートのみんながわかるように、ああ、俺、今日は緊張していると言いましたね。殻にこもって緊張してしまうと、特にゴールキーパーは特殊なポジションなので、あいつ、大丈夫かみたいになってしまうので、あえて大声を出しましたね。ロッカールームに帰るときも、ああ、俺、今日は緊張でガチガチだと言うことで発散をしたり、チームメートとコミュニケーションをとったりながら、何とか1試合目を乗り切ったのです。
そして、準決勝のメダルが確定した地元のカナダとの試合のときには、ある意味、ゾーンに入ったみたいな感じにできて、いい結果が出せたなと思っています。
○真砂さん なるほど。では、緊張したらだめというふうに凝り固まらないで、緊張してしまっていますと外に出したほうがかえって気が楽になったのですね。
○永瀬さん はい。
○真砂さん いいことを聞きましたね。そういうアドバイスもいただきましたが、いかがですか。これからの大会に生きてきそうですか。
○葛西春香さん はい。ありがとうございます。
○真砂さん 市長、実際に国際大会に出たトップアスリートでいらっしゃる2人の話を聞くと、その緊張感がいかなるものかということが本当によくわかりますね。
○秋元市長 そうですね。ワールドカップや世界選手権などの世界大会に出る世界のトップクラスの人たちと一緒に戦うこと自体も本当に限られたというか、みんながみんなできるわけではないですけれども、原田さんのようにいろいろな国際試合をたくさん経験している方ですら、オリンピック・パラリンピックというのは特別な舞台なのだなとわかりました。そして、精神的なコントロールを含めてやっていくというのは大変なことだなとも思いました。
ただ、そういう状況だからこそ、見る者にすごく感動を与えてくれるものなのではないか、より強いものを与えてくれるのではないかなと思いますね。
葛西さん姉妹は、叔母さんが飛んでいるのを見て始めようかということだったと思いますけれども、たくさんの子どもたちが緊張感の中でやっているトップアスリートの試合を見ることによって自分たちもやってみようという思いができてくるのではないかなと改めて思いましたね。
○真砂さん そうですね。葛西さんお2人は、2人のトップアスリートの間近で話を聞けたということがこれからの力につながるのではないかなと思います。
そういった臨場感あるスポーツの祭典を札幌でまた開こうと今いろいろ取り組んでいるわけですが、今度は札幌の現状はどうなのかというお話に移りたいと思います。
永瀬さんから伺えますか。
○永瀬さん 私の分野のパラスポーツ、障がい者スポーツということからいいますと、この数年、札幌はすごく変わってきているかなと思います。もちろん、日本全体も変わってきているのですけれども、特に、ウインタースポーツについて言うと、車椅子の方というか、足に障がいがある子どもたちのスキー授業には札幌市では一生懸命取り組んでくれているのです。
私も高校生のときに病気になったのですが、北海道、札幌ではスキー授業があるではないですか。それで、高校生のとき、スキー授業は見学だったのです。朝、学校に行ったら、バスが並んでいて、みんなはスキーウエアを着ているわけです。スキーが得意だったら、勉強しなくていいから、楽しみなイベントではないですか。でも、自分は1人で制服で学校に行って、スキー場に行って、ひとりでロッジの隅っこでレポートを書いていなければいけなかったのです。みんなはお昼休みにわーわー言いながら来て、楽しそうにお昼を食べているのを端っこで寂しそうに見ていました。
もう30年近く前ですが、それが今でも記憶に残っています。実は、そういう子どもたちが北海道にはたくさんいるのです。その打開策はあったのですけれども、うまくつながっていなかったのですね。
実は、バイスキーという座って乗るスキーがあって、それがあればスキー授業に参加できるのです。それをこつこつとやってはいたのですけれども、去年、一昨年ぐらいから札幌市では市を挙げて取り組んでくれて、今、スキー授業をやりたい子がいたら、何とかやってもらうのです。これは、特別なことではないのです。普通にスキー授業を一緒にやれるようにしようということなのです。そういう中からウインタースポーツをということなのです。
先ほど市長からもありましたけれども、車椅子だと確かに雪国では大変なのです。東京の人たちからは、北海道の雪の中で生きていくなんて想像できないとよく言われるのですよ。でも、我々は普通に生きていますし、すすきのにも行きますし、楽しいよと言います。
とにかく、子どもたちがどうやって雪で遊べるかについて進んでいるのが札幌の状況かなと思います。
○真砂さん そういった環境を整えられているということなのですね。
○秋元市長 障がいを持ったお子さんでも普通学級に通う子が多くなったというか、特別なことではなくなったのです。例えば、車椅子の子どもが普通のクラスにいると、周りの子どもたちの見方や行動が変わるのです。というのは、当たり前のことなので、車椅子の子も特別な子なのではなく、みんなと一緒に遊ぼうと工夫するのです。
例えば、昼休みに駆けっこをするときも、同じくやろうとするのです。ただ、残念ながら、先ほど言ったように、冬のスキー授業は見学とどうしてもなっていたのです。でも、今は、シットスキー、バイスキーという座って滑れる道具がありますので、それを使い、みんなで一緒にスキーをやりましょうとやっているのです。
周りにそういう子がいて、普通に接することで、自分たちも変わっていくのです。学校の先生からも、子どもたちは普通に対応していますよと聞きます。パラの選手が外国に行くと自分が障がい者であることをほとんど意識しないのだけれども、日本に来ると自分が障がい者だということを意識せざるを得ないと言うのです。それは、社会のハードだったりソフトだったり、いろいろだと思うのですけれども、日本の場合、そういうところからは、前に進めなければならないことがたくさんあるのではないかなと思っていますし、環境を整えていくことは重要なことではないかなと思っています。
○真砂さん その段階で、永瀬さんのようなパラスポーツの専門家で、実際、自分もパラリンピアンでいらっしゃるという方のご意見や実感というのはすごく大事ですよね。
○秋元市長 やっぱり、そういう声をいろいろなものに反映させることは必要ですね。
永瀬さんにもよく言われるのですけれども、例えば、スポーツ施設である体育館などもまだ使い勝手がよくないというか、もっと工夫をされると使い勝手がよくなるのにということがあります。でも、それは当事者の人でないとなかなかわからない点もあるので、ぜひ、そういう声をどんどん上げていただき、受けとめていくことが必要なのではないかなと思います。
○真砂さん 実際、永瀬さんは、ご自身のことだけではなく、さまざまな取材を通して、パラリンピアンというか、パラスポーツをされている方の実情を話しているのですね。
○永瀬さん そうですね。障がいといっても、いろんな障がいの人がいたり、それぞれの状況があるのですが、みんなが楽しめる社会になるといいなと思っています。
○真砂さん 後ほど紹介しようと思っていたのですが、永瀬さんもSNSでそういったことを発信されているので、ぜひご来場の皆さんにもアクセスしていただいて、情報を得ていただきたいと思います。
パラスポーツのことについては永瀬さんに伺いましたが、スキージャンプの札幌の現状に関して、原田さんとしてはどんなことを思われますか。
○原田さん 実は、大倉山の前に荒井山ジャンプ競技場という子どもの施設があるのです。そこには、30名から40名ぐらいのジャンプ少年団の子どもたちが今も将来のオリンピックを夢見て、ジャンプを始めています。昔に比べても減ってはいないのです。むしろ、我々の時代には考えにくかった女子の選手が増えてきています。男子しかいなかったジャンプ競技に女性がこうやって進出してくるのです。そして、女性も今や男子に負けないぐらいのテクニックで距離を伸ばします。ですから、ジャンプ競技もやっぱり変わったなと思います。
冬のスポーツも、今、非常に変わってきていますよね。ショーアップされて、見ていて非常に迫力もありますよね。例えば、スノーボードでは、ハーフパイプでくるくる回って点数を競うものもそうですし、スキーでもこぶの上を超えてくるようなものがありますが、ショーアップされたスポーツが非常に増えてきています。これは今の時代に非常に合ったスポーツだなと感じますよね。
我々は、この雪国の北海道、札幌からそれを発信したいのです。そして、そのためにオリンピックをと考えています。今、世界的に温暖化して、実は、どこも人工雪なのです。
以前、ロシアのソチオリンピックがありましたよね。先日、私は、テレビの仕事であそこに行ったのですけれども、一回も雪を踏みませんでしたよ。街なかもそうですが、競技場に行っても雪がなくて、ジャンプ台にしか雪がないのですよ。それで、私は雪を一回も踏まなかったです。そして、そのジャンプ台の雪が人工雪なのです。
冬のスポーツをやったのに、ちょっと寂しさを感じます。もし札幌でオリンピックが行われるようなことになったら、ものすごく豊富な雪があるわけで、冬季オリンピックの原点だなと感じられると思うのですね。
非常にショーアップされた競技もそうですが、札幌や北海道の皆さんと一体になりたいと思いますね。今のラグビーではないですけれども、たくさんの方とスポーツを通じて一緒になりたいなと思いますね。
○真砂さん 間違っていたら申し訳ないのですけれども、200万人という規模の都市で、これほど雪が降るところは世界でもまれだと伺ったことがあります。そこで、今おっしゃっていただいたように、人工雪ではなく、自然の雪の中でウインタースポーツの祭典が行われるとしたら、それは本当にすばらしいことですよね。
○秋元市長 そうですね。100万人以上の人口を抱える都市で3メートル以上の雪が降るのは世界中で札幌だけです。そして、こんなに近くにジャンプ台があるところもないのです。
そして、今、地球温暖化ということで、ヨーロッパなどの元々スキー場があったところでも、高い山の方に行かないとスキーを楽しめなくなってきています。
そうしたことが、今、ニセコをはじめ、北海道のスキー場が非常に注目されてきているということなのだと思うのですね。例えば、中国のスキー人口は、今、2,000万人と言われています。ですから、海外の人たちに北海道を知ってもらうと、多くの人たちがスキーに来るということももっと増えていくのではないかと思いますし、そういう意味では、札幌や北海道がアピールできる街だというのは非常に大きいと思いますね。
○真砂さん 実際の選手たちも、人工雪ではなく、本物の雪でやりたいですよね。
○原田さん 市民の皆さんにとっては大変迷惑かもしれませんが、そうなのです。
我々は、とにかく、子どものころから雪と一緒に育ってきているわけで、雪なしでは北海道を語れないではないですか。それを目いっぱい生かして、我々は頑張ってきたのです。
○真砂さん 雪かきは大変ですけれども、雪は宝物だということですよね。
○原田さん そういうことですよね。
○永瀬さん 車椅子でも、いろいろなやり方を考えれば、結構楽しめるのですよね。実際、北海道の車椅子の人は何とか雪を楽しもうと遊んでいるのです。ですから、雪は車椅子にとっては大変ではなく、雪でも氷でも車椅子でも楽しいよというものをつくっていけるといいかなと思いますね。
○真砂さん ウインタースポーツのオリンピック・パラリンピックの招致を目指しているという段階で、そういったことが広がっていくと、ある意味、雪国の冬の寒さや厳しさを違う視点でみんなが捉えられるきっかけになるかもしれませんよね。
では、雪の降る大都市の札幌で、今、複合競技をやっている優奈さん、春香さんのお2人にお話を伺います。
まず、改めて、複合競技とはどんな競技か、皆さんはご存じですか。
もしよろしければ、2人からどんな競技かを簡単に説明してもらってもいいですか。
○葛西優奈さん 複合競技というものは、まず最初に、スキージャンプで飛んで、ポイントを稼ぎます。後半の競技では、その計算されたポイントでスタートの順番が決まるのです。ジャンプのポイントが換算されるのですね。
後半のクロスカントリーは、女子は5キロ、男子は10キロを走るのですけれども、ジャンプのトップの人が一番最初にスタートし、次のスタートの人からは、換算された秒数後にスタートしていき、一番最初にゴールした人が勝ちです。
○永瀬さん 今日来てらっしゃる方では、荻原健司さん・次晴さん兄弟がやっていたと言うと、何となく思い出すのではないですか。
○真砂さん そうですね。有名な荻原兄弟の2人も双子でしたね。あれが複合競技ですね。よく知っている方はわかると思います。それに同じく双子の葛西さんお2人もチャレンジ中ということなのです。
永瀬さんがちょっと前におっしゃっていましたけれども、とにかく道具が多いですよね。そして、やる場所も違うのですよね。道具はご家族が運んでくれる感じなのですか。
○葛西優奈さん 家族や監督、コーチの人が送迎と荷物を運んで、コースに向かいます。
○真砂さん 道具も多い、場所も違う、そして、何しろ大会が多くなりますと遠征費などもかかってきます。市長、未来のオリンピアンを目指すには家族の協力もとても大事になるわけですね。
○秋元市長 日本の場合、教育にかけるお金自体も先進国の中ではそう高くないと言われています。スポーツの分野、音楽の分野でもそうなのかもしれませんが、結構大変といいますか、ご家族で移動の車を用意されたり、道具をそろえたりとか、遠征に行ったり、そういうサポートが少ないのです。企業からサポートをいただいたりすることもありますけれども、やっぱり公的な支援は少ないだろうなと思います。
複合というのは、ジャンプと距離競技をやるのですね。昔は、ジャンプ競技場と距離競技場が離れていてもよかったといいますか、札幌も白旗山が実はそうなのですね。でも、最近のコースは、ジャンプ台の周回コースで競技をするということなので、ジャンプ台と距離のコースが一体になっている、あるいは、体育館でもサブ競技場が一緒になっているなど、要求される中身というか、施設そのものが時代によって変わってきているので、建て替えをする際には新しい時代に合ったものに変えることも考えていかなければいけないのです。
そして、活動しやすい環境をどうやって整えていかなければいけないのかなど、考えなければいけないことがたくさんあります。
○真砂さん 公的な支援などもこれからいろいろと考えていかれるというお話でした。
では、親御さんがどう努力されているのかについても今日は伺ってみたいと思います。
会場に春香さん、優奈さんのお父様がいらっしゃっています。お父様、日々どのようなご尽力をされているかを伺ってもいいですか。
○会場(葛西父) 父親です。
○真砂さん ありがとうございます。
○会場(葛西父) まず、競技を続けていくためには、本当にお金がかかるのです。うちの娘2人は、いろんな人のおかげがあるわけですが、幸い、今、1社の企業にサポートしていただいています。でも、個人でできることは限られていますので、競技の底辺が広がっていくよう、ウインタースポーツをやるジュニアの子たちに対して、応援していただける企業の皆さんや札幌市の皆さんから資金を提供していただけるような枠組みというか、そういうものがあれば、もっとウインタースポーツが盛り上がっていくのかなと思っていますので、私としてはそういったことを発信していきたいなと思います。
○真砂さん 今、お2人のジャージーにスポンサーになってくださっている企業のマークがあるのですよね。
これは、どこの企業ですか。
○会場(葛西父) 札幌の建設関係で、小鍛冶組さんです。
○真砂さん そして、アスリート治療院ですか。
○会場(葛西父) トレーニングに費用もかかりますので、アシストしていただいている治療院ですが、そこのステッカーを張って、PRさせていただいています。
○真砂さん では、2社から支援をいただいているということですね。
○会場(葛西父) そうですね。
○真砂さん これからはスポンサーの力も必要になってくる、実力をつければ、ますますそうなってくるのですよね。今日会場にいらっしゃる中で、皆さんにはお2人の応援団にはなってもらいたいのですね。経営者の方がいるかもしれません。
○会場(葛西父) そうですね。ぜひ興味があるよという方は、応援という意味で資金を提供していただけますとうれしいです。娘2人だけではなく、ウインタースポーツ全体に資金を出していただけるということになれば、本当にオリンピックに向けて盛り上がるのかなと思います。
○永瀬さん やっぱり、地元から出て頑張っている、活躍する、そして、メダルをとると、本当に盛り上がりが違います。
例えば、北海道出身、ゆかりのオリンピアン、パラリンピアンは、夏と冬を含め、ある程度近代的なところで、札幌オリンピック以降でどれぐらいいらっしゃるか、皆さんには想像がつきますか。
実は450人です。今、北海道オール・オリンピアンズというネットワーク組織があって、原田さんも一緒にそういった中で活動しているのですけれども、そこの名簿を整理すると450人ぐらいです。もちろん、北海道を離れている、あるいは、引退後、北海道に来ている方もいますが、そのうち、380名が冬の選手なのです。
夏と冬を合わせても日本で断トツです。オリンピアンをたくさん生んでいるのです。特に、下川町なんて人口比にしたらすごいですよね。
○原田さん 今は、人口はもう4,000人ぐらいしかいないのですけれどもね。上川もそうですけれども、そこにメダリストが私と沙羅ちゃんと上川は2人いるのですよ。そして、下川は、「レジェンド」でしょう。岡部さん、伊東大貴など、たくさんいるのですよ。
○永瀬さん 今日、札幌市の方もたくさんいまして、耳の痛いところなのでしょうけれども、札幌生まれ、札幌育ちが意外と少ないのですね。それで、今、札幌も頑張っているのです。原田さんも高校生のときに札幌に来られたのです。
○原田さん そうなのです。札幌出身の選手が増えてほしいですよね。
○永瀬さん 増えてほしいです。札幌っ子のオリンピアン、パラリンピアンにはどなたがいるか、思い浮かびますか。
○真砂さん 思い浮かばないですね。実際はいるんですか。
○永瀬さん 里谷多英さんや川端絵美さん、あとは、ホッケーの藤本那菜さんなどがいらっしゃるのですけれども、200万人と4,000人ですからね。
○真砂さん そうですね。比率的にいったら少ないですね。
○永瀬さん 例えば、葛西さん姉妹みたいに、原石はもっといっぱいいるのだろうなと思うのです。うまくそれを育てていく環境や出会いがあれば、北海道、札幌だけではなく、日本のいいオリンピアン、パラリンピアンがもっと出てくるのではないかなと思いますね。
○真砂さん では、まず、ここにいる皆さんは、今日登壇してくださった葛西春香さんと葛西優奈さんの応援団ということで、未来のオリンピアンにしましょう。もうそれは決まりました。そのほかの原石をいかに発掘するかが札幌のこれからの課題になってくるのかなという感じですね。
○秋元市長 サッカーや野球もそうですけれども、まず、子どもたちが楽しんで参加をするという環境をつくり、そこから裾野を広げていくというか、全体の育成をしていく仕組みをちゃんとつくっていかないと、今日、明日、ぽっとオリンピックに出るような選手が出てくるわけではないので、オリンピック・パラリンピックをやるということだけが目標なのではなくて、そういう目標があることによって、選手にならなくてもいいのですけれども、日常的に自分たちの健康のために体を動かしてみようという市民を増やしていく、子どもたちを増やしていくということをしっかりやっていかないと多分だめというか、それを目的の一つとしてやっていかなければいけないことなのではないかなと思いますね。
○真砂さん 競技スポーツに特化するだけではなく、スポーツ全般で札幌の全てを楽しんでいくということですね。
○秋元市長 例えば、コーチも、一つの会社に所属してコーチをされている方だと別ですが、海外と違って、コーチングだけでなりわいを持つことは日本の場合はなかなか難しいのです。そういう意味では、スポーツを含めて、いろいろと社会を変えていかなければいけない部分はいっぱいあるのではないかなと思います。
○真砂さん 永瀬さんは、パラスポーツも全般に取材されていますし、ご自身もパラリンピアンですよね。今おっしゃっていましたが、札幌で原石を発掘され、より輝くよう、この街がそうなっていくためには、永瀬さんご自身が取材を通して感じていることというか、こうなったらいいのではないかなということはありますか。
○永瀬さん 確かにいろいろありますし、難しいこともあるのですけれども、特に札幌の状況からいくと、今は関心をもっと持ってもらう時期かなと思います。ラグビーもそうではないですか。やっぱり、関心を持つと、ルールを知っていこう、どんな人なのかな、ワールドカップとは何だろうなど、いろいろなムーブメントが出てくると思うのですね。
正直、冬のオリンピック・パラリンピックは、僕らが思っている以上に、そんなに世の中には知られていないのかなと思いますので、僕らもどんどん前に出ていって、お伝えしたいなと思います。
そこで、最後に私からクイズを出したいと思います。
私から言うのも変なのですが、皆さん、オリンピックマークがありますよね。あれを書けますか。
○真砂さん 五つの丸ですよね。
○永瀬さん はい。
○真砂さん そこまではわかるのですけれども、描ける方はいますか。
○永瀬さん 子どもたちに描いてもらうと、アウディみたいなマークになったり、斜めにチェーンがつながっている絵になることもあるのです。
○真砂さん 見ればわかるけれども、描くことはできないかもしれないですね。
○永瀬さん そうなのです。さらに、色がどういう配置になっているのか、意外と皆さんに知られていないのですよね。
オリンピックを目指している2人はわかりますか。それに、原田さんもいっぱい見ているから頭の中にあると思います。
○真砂さん 原田さん、目を合わせないようにしていますが。
○永瀬さん 優奈さん、春香さん、では、左から順番に言ってみますか。
○真砂さん 皆さんも頭の中で思い描いてみましょう。
○永瀬さん 左から何色かをお願いします。
○葛西優奈さん 左上は赤で、次が青、そして、黒、黄色、緑ですか。
○真砂さん 皆さんは頭の中で思い浮かべましたか。
では、正解をお願いします。
○永瀬さん 正解はこちらです。
青、黄色、黒、緑、赤です。ですから、青と赤が逆だったのかな。
○真砂さん 春香さんと優奈さんは、赤、青、黒、黄色、緑でしたね。
○永瀬さん あっ、黒以外は全部だめだったんですね。
○真砂さん 黒が正解でした。でも、これはわからないですね。
正解の方はいらっしゃいますか。いや、意外とこれは難しいですよ。
○永瀬さん これでほとんど世界の国の国旗が描けるという意味なのですが、何色ですか。
○真砂さん 5色ですよね。
○永瀬さん いえ、実は6色なのです。というのは、背景の白も含めています。
日本が白と赤ですよね。今のはちょっとひっかけ問題っぽいのですけれども、そういうことです。ついでに言いますと、パラリンピックマークはこちらです。この3色が世界で多いということです。また、躍動的なものにという意味があります。障がいがあって家に閉じこもっていないで、一歩外に出ようよということです。アイ・ムーブ、私が動くという意味が込められているのです。
○真砂さん これはぜひ皆さん覚えていってください。
○永瀬さん こういったところからちょっとずつ関心を持って、いろいろなメディアで出てくるときに興味を持って見てもらえると、ムーブメントも広がるのではないかなと思います。
○真砂さん 今聞いたお話をお友だちや会社の方に言うだけでも、へえと言われますよね。
○永瀬さん 意外と6色目の白は出てきませんね。
○真砂さん 知らなかったですね。これは何色だと聞くと、5色だと大概は言いますよね。でも、6色だそうです。ぜひここに来ていない身近な方に皆さんもクイズを出してみてください。
こんなふうにオリンピックに親しんでいくのもいいですよね。
○秋元市長 五つの輪があるのはよく知っていましたけれども、色まで意識をして見たことがあまりなかったので、改めて聞かれると、へえと思いますし、知らないことがたくさんあるなと思いましたね。
先ほどのジャンプ台もそうですけれども、身近に感じてもらうことがすごく大事なのだなと思いますね。だから、気軽に、いきなりジャンプ台ということはないかもしれませんが、スキーでも、札幌市には雪がありますけれども、一時期、小学校のスキー授業がなくなったときがあったのですよ。というのは、学校の先生がスキーを教えられなくなったのです。でも、先ほども言いましたように、3メートル以上の多くの雪が降る街なわけです。冬の生活の中では厄介なものではありますけれども、雪を楽しむということで、札幌の生活は成り立っていますし、文化の一つだと思うのです。
そこで、スキーにも親しんでもらおうということで、今、スキー連盟から指導の先生に来ていただいて、小学校でも中学校でも、昔のようにスキー授業ができるようになりました。ただ、こういうふうに環境を整えていくということが必要なのです。
また、競技をやるということになると、それなりに協力をいただく体制もつくっていかなければいけないわけで、多くの人たちに身近に感じてもらいながら、オリンピック・パラリンピックを考えてもらうきっかけになればいいなと思っています。
○真砂さん 実際に、2030年にオリンピックを招致しようという話があるからこそ、今、こういった話も皆さんと語り合えるのかなということもあると思いますし、聞いてらっしゃる方は、私もそうですが、札幌でオリンピックをやりたいなという気持ちになってきているのではないかなと思います。
実際、オリンピアンとして、原田さんは、選手としてということもありますでしょうが、街そのものの盛り上がりもご覧になっていると思うのですけれども、オリンピック・パラリンピックが札幌でということを想定し、何か感じられることはありますか。
○原田さん 日本は、ウインタースポーツが人気な方なのです。先日、韓国の平昌でありましたが、いまひとつウインタースポーツの人気がなかったのですね。
私はジャンプ選手ですので、ジャンプの話になるのですが、ジャンプ台には思った以上にお客さんがいなかったのですよ。私が出場した長野オリンピックでは、たくさんの人で真っ黒になったのです。それから、私もお話を聞きますが、札幌オリンピックでは、宮の森、大倉山に真っ黒になるぐらい人がいましたよね。話を聞くと、地下鉄円山公園駅から歩いて皆さんが来られたそうです。
それほど人気があるわけですから、もちろん、札幌で行われると非常に盛り上がるでしょう。とにかく、ジャンプ台は札幌市のシンボルでもあると思うのです。見上げれば必ずあそこにジャンプ台があるわけです。ジャンプ台には、いまだにオリンピックのマークがついています。競技場としての歴史も受け継いできているのです。1972年に関わった人たちが言うのですよ。君は、葛西さんか。俺が知っているのは笠谷だよと。すごかったよと。我々はそうしたジャンプの歴史を受け継いで来ているのです。今度は、葛西さんがそこでジャンプを飛ぶ姿が見たいですね。
○真砂さん そうですね。みんなで応援しましょう。
ただ、今、女子複合はまだ正式種目にはなっていないのですよね。でも、これからなる可能性は高いのでしょうか。
○原田さん そうですね。
○真砂さん 競技人口も徐々に増えているということですしね。
○原田さん 当時関わった役員の方々の話を聞くことができるのが非常に我々はありがたいのです。やっぱりまだまだ知らないことがたくさんあるので、札幌オリンピックのときはこうだったよと、1972年の話を聞いて、我々はもっと勉強しなければなと思っているところです。
○真砂さん これから、原田さんは、選手ではなく、盛り上げ役の方で活躍されるということですね。
○原田さん そうですね。選手を支える方でぜひやってみたいなと思っています。
○真砂さん ちなみに、原田さん、札幌オリンピックが2030年に開催されたら、何歳になりますか。
○原田さん 会社を定年しているころかなとは思います。
○真砂さん それでも、きっと、みんな、原田さんのような選手になりたいと憧れて頑張っている若い人たちが2030年には出てくるのでしょうね。
○原田さん ぜひ、またこの札幌で一体となりたいですね。
○真砂さん そして、お2人は、2030年にもし札幌でオリンピックが開催されたら、何歳になるのかな。
○葛西春香さん 26歳です。
○真砂さん 26歳ですか。市長、これはもう一番いいときではないですか。
○秋元市長 選手として一番トップの時期なのではないですかね。
○真砂さん ちょっと気が早いかもしれませんけれども、札幌オリンピックがあったら、そこで活躍したいという思いがありますか。
○葛西優奈さん あります。
○真砂さん 春香さんは。
○葛西春香さん 私もあります。
○真砂さん 葛西春香さんと葛西優奈さん、ぜひ、この会場の皆さんは、応援団になってください。拍手をお願いします。(拍手)
2030年に向けて、ぜひ、日々頑張って、オリンピアンになっていただきたいなと思います。
さあ、今日は本当に限られたお時間の中で、皆さんに、ご自身の経験を通して、さまざま伺ってまいりました。お時間も迫ってまいりましたが、ここで、今、お2人には抱負を伺いましたけれども、原田さんと永瀬さんから、ご自身の経験を通して、今、ご来場の皆様は、ウインタースポーツを愛されている皆様に対し、一言ずつメッセージをいただけますか。
○原田さん まだ夢の段階ですけれども、札幌オリンピック誘致がうまくいって、もし実現されたなら、ぜひご協力をお願いしたいなと思います。我々で盛り上げて、すばらしいものにしたいなと思っていますので、お願いいたします。
○真砂さん では、永瀬さん、お願いします。
○永瀬さん 今、来年の東京オリパラに向けて日本中が盛り上がっていますけれども、正直、北海道にいると、テレビの中の大会かなという感じがどうしてもしてしまうかなと思うのです。でも、札幌、北海道でやるとなると全然感覚が違ってくると思うのです。
オリンピック・パラリンピックをやるには、確かにいろいろな課題はたくさんあります。お金もかかります。ただ、やっぱり、1972年になかったパラの存在です。パラにはものすごく社会を変える力があって、たくさんの車椅子の人たちが世界中から来るのだったらどうしようということを本当に真剣になって考えなければいけないのです。何となくイベントをやるというだけではなく、街全体、北海道全体をどうしようかを変える力のあるタイミングになります。
そう考えれば、単純に選手、車椅子の方にとってということではなく、私たちも含めて、どうやったら楽しい北海道、札幌になるかを考え、オリンピック・パラリンピックを推進力にしていこうと。そうなれば楽しくやれるし、スポーツは、ラグビーみたいに、日本中が一体となれるではないですか。そういったところを目指したいなと思いますので、よろしくお願いします。
○真砂さん ありがとうございます。
市長、今回は、ウインタースポーツのお話、そして、2030年に向けてのお話などで皆さんと盛り上がりましたが、その中で、未来の暮らし方についてのメッセージを札幌から発信できるのではないかという期待感も高まったのではないかと思います。
今回のトークセッションをまとめて、一言、お願いいたします。
○秋元市長 音楽もそうかもしれませんけれども、スポーツは一定のルールに従ってやりますから、国や言葉の違いを超えて、世界中の人たちが一緒にやれるものなのです。先ほどの五輪の輪の話がありましたけれども、やる人も見る人もいろいろな意味で世界が一つになれる大きな一つがオリンピック・パラリンピックだと思います。
また、永瀬さんからはパラリンピックの話がありました。1972年のときは札幌ではパラリンピックがありませんでした。そのため、札幌では初めてとなりますけれども、社会の仕組み自体を変えていくことになると思います。バリアフリーというのは、時代を追っていけば変わっていくと思いますけれども、例えば、2030年に目指そうということになると、民間の施設も含めて、みんながそこに集中的にやろうというふうになって、一気に広がっていくわけです。
そして、先ほどは学校の子どもたちの話をしました。共生社会、ともに生きる社会ということがよく言われるのですけれども、お互いを知り合う、また、一緒になって一つのことをやっていくことを通じて仲良くなっていけるし、理解をし合えるのだろうと思います。そういう意味では、オリンピック・パラリンピックというのは、単なるイベントではないわけです。
また、これから高齢社会になっていきます。私なんかもいつ自由に階段をのぼりおりすることができなくなるかはわからないわけです。そういう社会の中で、みんなが明るく暮らしていける仕組みをつくっていきましょう、そういうきっかけにぜひしていきたいということです。
今日は、葛西さん姉妹に来ていただきました。おらがまちの選手が登場し、オリンピックで活躍してもらうということになれば、みんなも本当にわくわくするではないですか。そういう意味で、皆さんにもぜひ応援をしてもらいたいなと思っています。
今日は、本当に限られた時間でありましたけれども、皆さんとこういうお話ができましたことに改めて感謝申し上げたいと思います。ありがとうございます。(拍手)
○真砂さん どうもありがとうございます。
今はラグビーのワールドカップが日本にやってきているというタイミングです。世界の人たちがラグビーに熱狂していますし、札幌市民も熱狂しているということを体感した後に今日のお話を聞けたと思います。あの熱狂がこの街でというのをぜひみんなで実現させていけるように進めていけたらなと思います。
ご来場の皆様、今日は本当にどうもありがとうございました。
ご登壇の皆様もありがとうございました。(拍手)
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