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更新日:2023年2月16日

さっぽろ創造仕掛け人(第2回)

フリーペーパー「美翔女」編集長(元女子スキージャンプ選手) 山田いずみさん

札幌の魅力を創造し、マチを元気にするキーパーソンを紹介する
「sapporo ideas city さっぽろ創造仕掛け人」。
今年4月にオリンピックの正式種目に決まった女子スキージャンプ。
日本での歴史は山田いずみさんとともに刻まれてきた。
競技人口のほとんどを男子が占めるスキージャンプ競技において、
パイオニアとして女子選手の歴史を切り拓き、
現役引退後は女子スキージャンプの認知度向上を目指す
“仕掛人”として幅広く活動する山田さんにお話をうかがった。山田さんの写真

【女子選手として、ゼロからのスタート】

スキージャンプといえば、冬季オリンピックの花形種目の一つ。日本のお家芸とも言われる競技で、札幌冬季オリンピックの日の丸飛行隊をはじめ、長野冬季オリンピックの団体金メダルなど、これまで数々の輝かしい歴史を残してきた。だが、それらはすべて男子の話。女子のスキージャンプは、90年代後半に初めて大会が開催されるなど歴史も浅く、その足跡は山田いずみさんの競技人生と重なる。
山田さんがスキージャンプと出合ったのは幼稚園のとき。近所の友だちに誘われて札幌ジャンプスポーツ少年団の練習を見に行ったのがきっかけだった。「荒井山ジャンプ競技場を飛ぶお兄さんたちの姿が格好よかった」と入団を決め、小学校1年生で初めてジャンプ台を飛んだ。最初は怖くて、泣きながら飛んだものの、2本目、3本目と回数を重ねるうちに“飛ぶ”ことの楽しさに目覚め、のめりこんでいった。

山田さんがジャンプ台を初めて飛んだときの写真。当時珍しかった女子ジャンパーの登場は新聞やテレビにも取り上げられ、テレビ局には今も映像が残っている。

山田さんがジャンプを始めた当時は、まだまだ女子ジャンパーが珍しかった時代。札幌ジャンプスポーツ少年団には3人の女の子がいたが、中学校に入学するころには山田さんだけになっていた。さらに競技人口の少なさから、女子の大会はゼロ。男子に混じって参加してはいたが、出場できるのは年間数試合と少なく、中体連にも高体連にも出場できなかった。「ゼロからのスタートだったので、苦労を挙げればキリがありません。でも、ジャンプが楽しくて、少しでも高くから飛びたい、いつか大倉山を飛びたいという思いだけで続けていましたね」。

【苦難を乗り越え、世界のトップのジャンパーに】

女子ジャンパーとして孤軍奮闘する山田さん。その姿は多くの関係者の目に止まり、13歳のとき、ついに女子スキージャンプの未来が拓かれる。長野県の大会で、初めて女子の部が創設されたのだ。「出場選手は私だけで、優勝も私。照れくさかったですが、あの大会が無かったら、日本の女子スキージャンプの今はなかったかもしれない。本当にありがたかったです」。以降、女子の部を設けた大会が徐々に増え始め、女子ジャンパーも少しずつ増えてきた。

「大倉山を飛びたい」という夢を達成したのは、高校3年生のとき。女子初の快挙で、男子に混じっての大会だった。ちなみに山田さんは宮の森ジャンプ競技場を飛んだ初めての女子ジャンパーでもある。そのときにはスタートゲートに立ったものの、「女子が飛ぶのは危険すぎる」と審議になったという。

短大卒業のころになると、女子スキージャンプの国際試合が開催されるようになり、「世界のトップに立ちたい」という新たな夢が芽生えた。だが、現実は甘くない。卒業後、5年間所属した国内女子初の企業チームが廃部。国内では圧倒的な強さを誇り、「女王」と呼ばれる実績を持ってしても、次の所属先が決まらない苦境に立たされた。さらに半年後、ようやく現在も所属する神戸クリニックに入社するが、今度はその年の秋の大会で転倒。肝臓損傷という全治半年の大怪我を負う。だが、不屈の精神力と医師との「転ばないこと」を条件に、2カ月半後の大会に復帰。見事に優勝を果たした。そして翌年、オーストリアで開催された夏の国際試合で、ついに表彰台の頂点に立つ。短大を卒業してから9年でつかんだ日本人初の快挙だった。

夏のコンチネンタルカップの優勝カップ。海外の大会では優勝カップや盾がガラスでできていることが多く、世界の大会で初めてもらった盾は、帰国した際にスーツケースの中で粉々になっていたとか。「涙が出るくらいショックでしたね。これは手荷物で大切に持って帰ってきました」。

【世界選手権の開催、そして現役引退】

世界の頂点に立った翌年の2009年、今度は史上初めての女子スキージャンプの世界選手権がチェコで開催された。「世界選手権の開催は世界中の全選手の夢。私にとっても悲願の大会でした」。だが、思いが強すぎたことがプレッシャーとなり、結果は25位。思うような成績を残すことができなかった。そして、同シーズン限りでの引退を決めた。理由は体力的にも精神的にも限界を感じていたこと。そして「世界選手権の開催と出場を達成し、緊張の糸が切れてしまったのかもしれない」と振り返る。100%ではない中途半端な気持ちで飛ぶ姿を、自分の背中を見てジャンプを始めた後輩たちに見せたくはなかった。


【選手から、ジャンプの魅力を伝える側へ】

引退後、山田さんは所属していた神戸クリニックに残り、まだまだ知名度の低い女子スキージャンプの普及活動に乗り出す。小学校などで講演を行い、イベントにゲストとして参加。さらには自らが編集長として応援冊子『美翔女』を立ち上げた。「冊子だと、私自身はもちろん、選手たちも手渡しで女子スキージャンプのことを伝えられる。ファンの裾野を広げ、企業にも注目してもらえるようなものを作りたかったんです」。

フリーペーパーの『美翔女』は、大倉山ジャンプ競技場やゼビオスポーツ、ICI石井スポーツにて配布中。7月発行予定の第5号からは札幌市内の体育施設でも手に入れることができる。

ご主人や友人のカメラマンなどに協力してもらい、引退した年の2009年には第1号が完成。現在、4号まで発行している。競技シーンや大会の結果といった専門的な内容を入れず、選手達がきれいなファッションに身を包むグラビア写真やインタビュー記事を中心に構成した誌面。その理由を「まずは女子スキージャンプに興味を持ってもらいたかったから。こんなに普通の子たちがジャンプを飛んいるんだと知ってほしかった」と明かす。

第1号の印刷費は山田さんや応援してくれるファンの出資でまかなった。「それでは続かないと思い、2号から広告枠を設けて、自ら営業して出資を募っています」。

また、『美翔女』では企業広告に加え、ひと口5,000円の個人サポーターも募集している点も面白い。「発行だけでなく、選手の育成に役立てたいと考えています」と山田さん。最近は札幌ジャンプ少年団へトレーニング用グッズを寄贈し、今後も競技の発展に役立てていくつもりだ。ほかにも今年の春には選手たちと札幌駅前通地下歩行空間で秘蔵写真のスライドショー放映や東日本大震災の募金活動を実施するなど、精力的な活動を展開している。「まだ紹介できていない選手もいっぱいいるので全員をのせていきたいですし、ファンと交流できるイベントもどんどん増やしていきたいですね」。


【自身の経験を、後進の育成に】

今年4月には、女子スキージャンプが2014年のソチ冬季オリンピックから正式種目になることが決定。認知度は今後、さらに高まっていくに違いない。だが、選手たちの現状は未だ厳しい。「女子の企業チームは全国に3つしかなく、所属しているのは3選手だけ。選手の多くは大学生で、これから卒業していってもアルバイトをしながら活動をしなければいけない」。そのためにフリーペーパーやイベントを通して、地道にバックアップしていきたい。そして、「いつか小さな女の子たちを教える環境ができたら」と語る山田さん。彼女の女子スキージャンプのパイオニアとしての挑戦はまだまだ続いている。

引退後に結婚した山田さんは今年8月に第一子を出産予定。「現役時代、女子がジャンプをすると着地の衝撃で子どもが産めなくなると言われましたが、ウソだということを証明できてよかったです」と笑う。


【さっぽろ創造仕掛け人に聞きたい! 3つのクエスチョン】

Q.札幌のどんな部分に魅力を感じていますか?

A.都会なのに、すぐそばに自然があるところ。都心から車で20分ほどにあるジャンプ台は世界でも札幌にしかありません。

Q.札幌の皆さんに伝えたいことはありますか?

A.せっかく札幌に住んでいるのですから、一度はジャンプ台に足を運んで欲しいです。ジャンプの大会は冬だけでなく、夏も開催しています。寒くないので、初めての方には来やすいと思います。滑り降りる音や空中での風を切る音など、生の観戦は迫力がありますよ。

Q.山田さん自身がプロモーションで大切にしていることとは?

A.新鮮な気持ちを持ち続けること。女子スキージャンプの魅力を伝えていると、どうしても同じことを話さなくてはいけませんが、マンネリを感じては相手に想いが伝わりません。ジャンプの魅力や女子としての想いを、いつも純粋な気持ちのまま伝えられるよう努めています。

取材・文 : 児玉源太郎

撮影 : 山本顕史(ハレバレシャシン) 

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