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更新日:2011年2月9日

30.創成川の中に神社があった

エピソード・北区

第4章:川と並木

24.血と汗の囚人労働で25."いわれ"はあだ名から26.長い木の橋27.茨戸川の誕生28.旅人宿を営む人も29.郷愁をそそるながれ30.創成川の中に神社があった31.子どもたちの遊び場だった創成川32.北大ポプラ並木33.目的は牛馬よけだった34.屯田防風林とともに生きる人たち35.地域住民の長年の夢、ついにかなう

30.創成川の中に神社があった

人が集まる場所だった創成川の閘(こう)門

 

創成川の中に神社があった1

地域の人々が集まった太平神社

創成川の中に神社があった2

昭和47(1972)年9月17日、地域の人たちの手で解体され、太平神社は幕を閉じた(2枚とも写真提供:野崎政雄さん)

創成川の中に神社があった3

太平神社は地域結集の証だった

現在の太平地区周辺には閘門が三カ所あったといわれている。そのうちの1つ、茨戸側から2番目の閘門付近には、太平神社が設立されていた。神社では、五穀豊穣(じょう)を祝う祭典が毎年9月5日に行われ、相撲、芝居、映画の上映など盛大に催されていた。祭りの最中には出面人(でめにん)と呼ばれた稲刈収穫作業を手伝う人々を確保したり、未来の花嫁、花婿探しに近隣町村から若者が集まったりと、のどかな光景が見られた。そんな若者の一人であった浅井金蔵(あさいきんぞう)さん、富樫邦男(とがしくにお)さんは「当時、若い人たちはみんな青年会に入っていたんだ」「そのころの青年会では芝居を演じていて、俺らも役者として舞台に上がったもんだよなあ」と目を細める。
また、神社の横には「太平会館」という公民館も建てられ、太平地区に住む人々の集会場となっていた。閘門は運河機能だけではなく、地域の社交場のような場所として人々の生活に根付いていた。

この太平神社は、大正13(1924)年ころ、「北野神社」として北16条西4丁目にあったものではないかといわれている。戦前は出征の祈願を行った人もいたようだが、いつしか忘れられ、江南神社の第5代社主山東喜代蔵さんに託された。
時を隔てて昭和25(1950)年、山東さんは太平地区に神社を建立してもらおうと、太平地区に住む故松岡源一(まつおかげんいち)さんの家を訪れた。源一さんの息子の博(ひろし)さんは「今でもその時のことを覚えていますよ。年の瀬の迫ったころだと思いますが、いきなりご神体を持って来られたんですから。その後神社の本陣を建てるまでの約半年間、ご神体と同じ部屋で寝起きしていたんだ」と笑いながら話す。
翌年4月、地域の人たちが総結集して、勤労奉仕により太平神社を建立した。神社の運営も、地域の中から総代を数名選出して祭典を切り盛りした。これにより、地域の団結も一段と深まったのではないだろうか。
しかし、札幌市が政令指定都市となった同47(1972)年、太平神社は社の老朽化に伴い、その役目を終えることとなる。この年の祭りを最後に、篠路神社に合祀(ごうし)され、その短い歴史の幕を閉じた。社は取り壊され、今ではその名残を見つけることはできない。そして、そのころから太平地区も農村から住宅地へと変わっていくこととなる。

変わりゆくまち、当時の人々への思い

創成川の風景も、大きく変わっていく。川辺は緑地に整備され、地域の人たちが植えたポプラ並木が成長した姿を見せており、北区を象徴する風景の1つとなっている。しかし、そこに神社があり、人々が集い、地域の社交場のような場所だった閘門のことを知る人は減ってきている。
また、その閘門を造った岡崎文吉の功績はテレビや本に取り上げられ、環境保全の面から再び評価されている。そのような世界に誇れる技術が地域にあり、そこに住む人々の生活に根付いていたことが忘れ去られていくことに寂寥(せきりょう)の感がある。

(「新・北区エピソード史(平成15年3月発行)」掲載)

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