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24.血と汗の囚人労働で|25."いわれ"はあだ名から|26.長い木の橋|27.茨戸川の誕生|28.旅人宿を営む人も|29.郷愁をそそるながれ|30.創成川の中に神社があった|31.子どもたちの遊び場だった創成川|32.北大ポプラ並木|33.目的は牛馬よけだった|34.屯田防風林とともに生きる人たち|35.地域住民の長年の夢、ついにかなう
茨戸-札幌間を走った馬鉄
太平ポプラ並木を守ろうと手入れに励む地元の保護育成会=昭和48(1973)年8月撮影
おらが村にポプラの木を植えれば、ヤツらから畑の被害を防げるのでは…。」大正初期、篠路村学田部落(現・篠路町太平)の村人は、こんな奇妙な"密談"を交わし、ひそかに準備をすすめていた。
当時、学田一帯は、水田、エンバク、大豆、トウキビ、ジャガイモなどの畑と牧草地帯であり、屯田兵村や隣村にとっては、牛馬にうってつけの放牧地帯でもあった。田畑は牛や馬に荒らされることもしばしば。そこで、隣村の飼い主といさかいもなく、何とか穏便に牛馬を追い払えないものか―と思案のあげく思いたったのが、ポプラの植樹作戦であった。つまり「部落のものがポプラ植樹の許可申請に、何度も道庁に掛け合ったようだ。悲願の許可が下りたら、牛や馬の放牧集中地帯を狙って植える。ポプラ育成の管理に関する権利義務を"錦の御旗"に掲げれば、放牧をうまく止めさせられることの思惑があったのですよ」と、当時、まだ20歳そこそこの青年だった和田浩さん(80)。
そうして村人総がかりでの植樹が始まった。苗木は部落の篤志家が寄贈し、全てが村民自身の手による風変わりな"緑化作戦"であった。大正4(1915)年、60年も昔のことである。
ちょうどこの年、京都では大正天皇の即位大礼が行われ、植樹計画も「大正天皇御大典記念」と銘打って箔(はく)を付け、作戦は無事成功したという。
ところが難儀がまたひとつ。植えて間もないポプラ並木に沿って馬鉄が通り始めた。馬がレールの上を客車を引いて走る、いわば「馬引き軌道車」が、茨戸から北7条あたりまでの石狩街道を雑穀などを積んで走った。若いポプラの枝振りが、馬のムチに適していたのか、何度も馬車追いに折って使われ、くる日もくる日も補植の明け暮れだった。
こんなことを繰り返しているうちに、放牧追放で植えた当初の目的も、次第にポプラ育成の愛着に変わっていった。
そして現在、大正、昭和の風雪を耐え抜いた「太平ポプラ並木」も、樹齢60年。北大ポプラ並木に劣らぬ見事な風物となっている。
(「広報さっぽろ北区版昭和49年5月号」掲載)
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