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24.血と汗の囚人労働で|25."いわれ"はあだ名から|26.長い木の橋|27.茨戸川の誕生|28.旅人宿を営む人も|29.郷愁をそそるながれ|30.創成川の中に神社があった|31.子どもたちの遊び場だった創成川|32.北大ポプラ並木|33.目的は牛馬よけだった|34.屯田防風林とともに生きる人たち|35.地域住民の長年の夢、ついにかなう
棟りょうは六尺近い大男、鼻は人並み超えて高かった
札幌の西北を一直線に流れる新川は、明治の中期、樺戸監獄の囚人が掘った人工河川と言い伝えられる。この川を下流に進むと、「天狗橋」という珍しい名の付いた橋に差し掛かる。
「はて、何かいわれでもあるのかな」
新川地区の人に限らず、この橋の名を知る人は天狗橋の来歴をよく話題に上げる。真相を橋近くに住む木原キクさん(74)に尋ねてみた。
「天狗橋ができたのは私が九つぐらいのとき。そのころ新川にはアキアジが上っていました。ここらにはロクな橋が無かったので、完成した時は渡り初めの記念式もやったようでした。工事を請け負った棟りょうは六尺近い大男、鼻が人なみを超えた高さで、私たちは"天狗おじさん"と呼んだものです」。
天狗橋の名の由来をこう話してくれた木原さんは、生まれも育ちも新川地区で、生粋の"新川っ子"先代がここに入植したのは明治二十九(1896)年というから、この地区の酪農業の草分けである。
「天狗橋を造ったのは、もしや私の父では…」木原さんにとって思い出深い"天狗おじさん"の実の娘さんが、つい最近、名乗り出た。西区発寒の菅原キヨさん(89)がその人である。
「私は子供のころ"天狗の子"とみんなに言われてイヤな思いをしたものです。木原さんのおっしゃるとおり、父の鼻が高すぎるからなんです。"オレは手稲の金山を見つけるぞ"と言っていつも山に行くものですから、"ホラ吹き天狗"とも言われていました」
天狗の名は堀内清四郎と言い、琴似の屯田兵だった。ずっと札幌を離れていた菅原さんが天狗橋の存在を知ったのは4年ほど前。「その時は、父と同じあだ名の橋を見てドキッとしましたが、父のあだ名をとったものとは思いませんでした」そしてこのほど、父親の遺業を実証する木原さんとの感激の対面となった。
立ち合った北区在住の史家、小梁川重彦さんは、「味気ない名前の多い中で、天狗橋……この名は実に"歴史的な人と土地のつながり"を感じさせます」と話す。
天狗橋で感激の対面=木原さん(右)と菅原さん
(「広報さっぽろ北区版昭和51年6月号」掲載)
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