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ホーム > 北区の紹介 > 歴史と文化 > エピソード・北区 > 第4章:川と並木 > 29.郷愁をそそるながれ-創成川

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更新日:2023年1月10日

29.郷愁をそそるながれ-創成川

エピソード・北区

第4章:川と並木

24.血と汗の囚人労働で25."いわれ"はあだ名から26.長い木の橋27.茨戸川の誕生28.旅人宿を営む人も29.郷愁をそそるながれ30.創成川の中に神社があった31.子どもたちの遊び場だった創成川32.北大ポプラ並木33.目的は牛馬よけだった34.屯田防風林とともに生きる人たち35.地域住民の長年の夢、ついにかなう

29.郷愁をそそるながれ

創成川

 

大友亀太郎

創成川下流には平田舟が上り下りした往時の姿がうかがわれる=屯田3番通付近で

大友堀周辺の工事時期を記した地図

その昔、二宮尊徳の門下生がつくりあげた創成川。札幌っ子にとって、この川ほど郷愁をそそる流れはない。
水上(みなかみ)は、豊平川分流の鴨々川から発し旧石狩川に注ぐまで。南6条以北、全長約10キロメートルである。幾度か改修と掘削を重ねて、今日の創成川になった。108年前の慶応2(1866)年、二宮門下の幕吏・大友亀太郎によって開削されたいわゆる大友堀が、この川の始まりといえよう。しかし、この大友堀は、現在の創成川の流れの中で、南3条から北6条までが、その名残をとどめているにすぎない。
大友は、水路を現在の石狩陸橋の下あたりから北東に向け、さらに南東に折って、札幌村役場(現・東区札幌村郷土記念館)の裏側に通し伏籠川に注がせた。人々はこれを百万両の大工事といい、完成した人工の水路を「大友堀」と呼んだ。創成川と名付けられたのは、通水してから8年後の明治7(1874)年のこと。ときの岩村判官が命名した。この命名に最初の拍手を送ったのは石川啄木。「市の中央を流るゝ小川を早世川といふ、うれしきなり」と啄木は日記に書いたが、「創成川」の持つ響きは大都会の中で、大らかなふるさとの味と郷愁にも似た感懐を与えてくれる。
大友堀は、開拓者の飲用水、田畑の用水のほか、運河の役目も果たした。札幌本府創建の頃は米、みそ、しょうゆなどを積んで、石狩川→伏籠川→大友堀と渡り、札幌(帝国製麻付近の倉庫)へ運び込んだという。札幌本府が開かれて人が集まるようになると、大量の生活物資が必要となる。もはや輸送水路の変更は、時代の要望でもあった。
そこで、茨戸に届いた物資を最短コースで輸送しようと、まず明治3(1870)年に掘られたのが、北6条から麻生町の裏で琴似川に結ぶ「寺尾堀」。明治28(1895)年、道庁の4代長官・北垣国道は、これを掘り広げ、さらに北へ一直線に茨戸まで開削。この新しい水路は、当時「琴似新川」と呼ばれた。現在、創成川と呼ばれているのは、これにつながる南6条までの流れである。
大友堀の北6条─伏籠川間は、大正14(1925)年ごろ本格的に埋め立てられたため、今、堀の面影は残っていない。
新ルートの運河輸送は、かなりの近代的手法を導入した。茨戸から北6条間の8カ所に「閘(こう)門」を設け、舟が一区間進むごとに門を閉じ、水量を蓄えては進む方式。世界に名高い「閘門式パナマ運河」のできる8年前というから驚く。舟は「磯舟を大きくした感じで、帆もついていた」と昔から川を見守ってきた篠路の和田浩さん(80)は当時を懐かしむ。
大友堀の昔から今日の創成川に至るまで、悠久の流れは札幌の今昔を静かに物語っている。
「いわば私たちの"郷愁の川"ですねえ。水(川)のない都市はいつかは滅びる。100の噴水より1つの川をみんなで大切にしなければ…」と北区在住の郷土史家小梁川重彦さんは語る。

(「広報さっぽろ北区版昭和49年7月号」掲載)

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