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更新日:2023年1月10日

27.茨戸川の誕生-石狩川改修

エピソード・北区

第4章:川と並木

24.血と汗の囚人労働で25."いわれ"はあだ名から26.長い木の橋27.茨戸川の誕生28.旅人宿を営む人も29.郷愁をそそるながれ30.創成川の中に神社があった31.子どもたちの遊び場だった創成川32.北大ポプラ並木33.目的は牛馬よけだった34.屯田防風林とともに生きる人たち35.地域住民の長年の夢、ついにかなう

27.茨戸川の誕生-明治31年大洪水-

石狩川改修

 

軒先まで水につかった開拓小屋(北大図書館蔵)

茨戸川周辺の航空写真

発寒川、創成川、伏籠川の三川が合流して茨戸川に流れ込む地域。治水対策も進み水害の憂いもなくなった


春の雪解け水と秋の台風と毎年、定期便のように襲ってくる水害。まさに、北区開拓の歴史は水害との闘いの歴史でもあった。

明治31年の大洪水

なかでも、明治31(1898)年9月は空前の大洪水となった。6日に全道的に豪雨があり、7日になって強風も加わって、雨量はいよいよ激しいものとなった。札幌測候所でも開設以来、最高の降水量を記録。
この豪雨は全道各地に被害をもたらした。特に、石狩川の増水は甚だしく、豊平川の合流点の対雁村(現江別市)では、水標が27尺(約8メートル)までに達した。
このときの全道の被害は、死者248人、家屋の浸水24,000戸、家屋の流失倒壊3,500戸、田畑の冠水56,000ヘクタールと記録されている。特に、時期が収穫直前であったため、農家の受けた打撃は大きく、収穫皆無、食糧の欠乏という最悪の事態に追い込まれた。

篠路大根の全滅

篠路村は、特に被害が大きかった。全村水浸しの状態が数日続いた。被害戸数は720戸と、当時の全戸数の7割以上という悲惨な状態に陥った。これは、丸3日降り続いた降雨量そのものも多かったが、春の雪解け水と7月の出水のため、すでに地面が飽和状態であったことが原因である。さらに、河川は大きく曲がりくねるとともに、岸辺にアシや柳などが生い茂っていたため水が引きにくかったことも原因である。
篠路に住む柳沢正幸さん(72)は、こう語っている。「私はまだ生まれていませんでしたが、父からよく聞かされたものです。雨が降りだしてから、一昼夜にして開拓小屋の軒まで(約3メートル)水に漬かったそうです。家で飼っていた馬を連れて、興産社のある高台の親類の家に避難。水が引くのに丸10日もかかったそうです。収穫を終えたエンバクは水に流されるし、畑のジャガ芋は全部腐ってしまい、この年の収穫は皆無だったそうです」。
前途に希望を失った者は続々と離村。一度に90世帯、約400人もの人たちが村を捨てていったという。篠路兵村(現・屯田)では、大根が地味に適合したのか、札幌でも、最も優れたものとして篠路大根の名は高く評価されていた。しかし、この明治31(1898)年の大洪水は兵村を水浸しにし、名声を誇った篠路大根も全滅。このため、篠路に替わって新琴似大根が黄金時代を迎えることになった。

石狩川の改修

石狩川のはんらんは、周辺村落の消長に大きな痕跡を残してきた。明治31(1898)9月全道を襲った大水害の惨状から、北海道庁は、治水調査会を設け石狩川の基本調査を実施、計画的な治水事業に乗り出した。大正7(1918)年に石狩川治水事務所を生振(おやふる)に設置。石狩川の途中の石狩町美登位(びとい)と生振の間に新しい水路をつくり、川をまっすぐにする工事に着手。この生振新水路は、延長3.7キロメートル、当時のお金で300万円を費やし昭和6(1931)年に完成。このとき石狩川から切り離された三日月湖が今の茨戸川。この工事の完成により、石狩川のはんらんによる全村水没の憂いはなくなった。

(「続・北区エピソード史(昭和62年3月発行)」掲載)

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