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更新日:2011年2月7日

24.血と汗の囚人労働で-新川開削

エピソード・北区

第4章:川と並木

24.血と汗の囚人労働で25."いわれ"はあだ名から26.長い木の橋27.茨戸川の誕生28.旅人宿を営む人も29.郷愁をそそるながれ30.創成川の中に神社があった31.子どもたちの遊び場だった創成川32.北大ポプラ並木33.目的は牛馬よけだった34.屯田防風林とともに生きる人たち35.地域住民の長年の夢、ついにかなう

24.血と汗の囚人労働で

新川開削

 

血と汗の囚人労働で

明治14(1881)年開庁した樺戸監獄(集治監)本庁舎・現在は北海道行刑資料館=月形町役場所蔵

明治19(1886)年北海道庁設立。
初代長官・岩村通俊に与えられた使命は、開拓のスピードアップであった。北海道開拓の行政機構は、開拓使、三県一局、そして道庁設立の経過をたどり、道庁時代は過酷な囚人労働による開拓期としても名高い。
「初期北海道行刑の歴史は、北海道開拓の歴史そのもの」(『北海道行刑史』重松一義編著)といわれるほど、本道開拓は囚人の酷使によって支えられていた。
道路開削、石炭採掘、治水事業など。難行極まる大事業は、当然囚人へ向けられた。
そのひとつ、札幌の西北を流れる「新川」も囚人たちの手によって造り上げられた川、と言い伝えられている。桑園競馬場付近から石狩湾へ注ぐまで、全長約13キロメートル。川の流れは北区と西区の区界でもある。
新川開削は運河を兼ねた大排水事業の1つで、計画の初めは明治3(1870)年。のち明治19(1886)年、岩村長官時代に大規模に実施された。工費58,710円。完成は1年後の明治20(1887)年とも5年後ともあり、記録はまちまちである。
明治の昔、この新川流域一帯は低湿地帯で、度重なる発寒川、琴似川のはんらんによって人々の苦しみは想像を絶するほど。新川の完成は、湿地改良に役立ち、隣接兵村に与えた利益は大きなものだった。
この大事業が囚人によるものだという史実のたぐいは見当たらないが、元・手稲町長の蓑輪早三郎さん(70)は「新川は囚人堀で、彼らは月形の樺戸監獄から連れられて来たのだと聞かされた。私がこの話を聞いたのは、もう50年も昔のこと」と証言する。蓑輪さんに言い残した古老たちは、新川開削をつぶさに見とどけた生き証人でもあった。
樺戸監獄が月形町に存在していたのは、明治14(1881)年から大正8(1919)年。その歴史は、脱獄と獄死でつづられているが、五寸釘寅吉など刑事犯に交じって、西南戦争での敗残武士や自由民権運動の志士たちも大量に逮捕され、ここへ送りこまれていた。
全長13キロメートルの新川開削は、こういった囚人たちが充てられ、水路を上流側から一直線に掘っていったという。赤い囚人服を身にまとい、土を掘り水をあげる囚人の群れ。
囚人の酷使による開拓は悪名高く、樺戸だけでも1,000人以上が獄死しているが、この新川開削の過酷さもまた、相当のものであったのだろう。川の流れだけが、血と汗に彩られた"新川囚人哀史"を知っているかのようだ。

(「広報さっぽろ北区版昭和49年10月号」掲載)

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