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ホーム > 北区の紹介 > 歴史と文化 > エピソード・北区 > 第4章:川と並木 > 28.旅人宿を営む人も-茨戸宿場町

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更新日:2023年1月10日

28.旅人宿を営む人も-茨戸宿場町

エピソード・北区

第4章:川と並木

24.血と汗の囚人労働で25."いわれ"はあだ名から26.長い木の橋27.茨戸川の誕生28.旅人宿を営む人も29.郷愁をそそるながれ30.創成川の中に神社があった31.子どもたちの遊び場だった創成川32.北大ポプラ並木33.目的は牛馬よけだった34.屯田防風林とともに生きる人たち35.地域住民の長年の夢、ついにかなう

28.旅人宿を営む人も

茨戸宿場町

 

昭和7(1932)年のころの茨戸舟着場の様子

雪におおわれた茨戸湖(茨戸遊園地)=昭和50(1975)年1月撮影

「そのころの茨戸は、一種の宿駅といったおもむきで形づくられていました」これは明治期、少年時代を茨戸で過ごした石附忠平さん(81)の自叙伝『切株の跡』の一節である。
かつては、人々に大川と呼ばれた石狩川にはいくつもの川が流れこみ、沼が点在し、その網目の中に茨戸があった。漁村であり、農村であり、また当時はにぎわっていた石狩との水陸交通の中継地点でもあった。
茨戸付近の石狩川ではアキアジの大漁で活気にあふれ、札幌―茨戸間を往来する馬鉄(馬車鉄道)や創成川運河の開通で大小の舟が行き交う。ポンポンポン…川蒸気の音が聞こえ、家々の大半が丸木舟を備えていたというふうに、茨戸は、同時代の札幌の生活や情緒と、一風異なった河港の町であった。
行商や遊芸風の仕事をしながらここに定着した人々。ニシン漁期には漁場に行って働く漁師、農民、料理屋、旅人宿、渡し舟などを営む人々。全国各地からもいろいろな人物が訪れたり、住み着いたりもした。
「その水は動いていた。底から水面へ、水面から底へ、そして淀みを作り小さな渦大きな渦を作り、大きく黙々と動いていた。茨戸は今水の中にある。高く盛り固められた道路に水の上って来たのは昨日の事で、今日は大ていの家では床すれすれまで浸っていた」(北区新琴似・上島太郎著『薯』から)
このように一方では活気に満ち、宿場情緒が旅人の安らぎになっていた茨戸も、他方では、水害の茨戸か茨戸の水害か、といわれたほどに幾度も水害がこの村を襲った。
しかも、雪解け期には一面が沼のように変わり果てたという。ちなみに、茨戸(パラ・ト)はアイヌ語で「広い沼」の意味である。
さて、この茨戸―札幌間に馬車鉄道が開通したのは遠く明治43(1910)年。この馬鉄の通った道も将来、時代の先端をいく高速軌道に生まれ変わる日が来るかもしれない。
「馬鉄の馭者(ぎょしゃ)や運河を流した船頭さんたちがもし生きていたら、こんな新しい茨戸に度肝をぬかれるでしょうね」(代々茨戸に住む米倉勝美さん)
昭和6(1931)年、この地を流れていた石狩川の一部が、その蛇行部を切り取られ茨戸川として独立した。湖水のような静かな流れと、水郷を思わす季節ごとの草花の豊かさが今、景勝地として時折にぎわいを見せている。

(「広報さっぽろ北区版昭和50年2月号」掲載)

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