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ホーム > まちづくり・地域の活動 > 伝統文化の伝承活動 > 北区の歌舞伎を後世に3(伝統文化育成プログラム促進事業)

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更新日:2022年12月27日

北区の歌舞伎を後世に3(伝統文化育成プログラム促進事業)

北区伝統文化育成プログラム促進事業を進めています

支援の方向性をまとめ、保存・継承団体との意見交換を行いました

北区伝統文化育成プログラム促進事業では、ヒアリング調査とその内容の分析を基に、事業協力者の札幌大谷大学森教授と北星学園大学高橋教授を中心に、農村歌舞伎の保存・継承団体における後継者育成への支援について議論を重ねました。

両教授からは、「歌舞伎団体が共同歩調を取る必要性と組織作り」や、「公演機会の提供」、「広報宣伝活動の強化」、「資料等の収集・保存・出版活動の支援」などが提案されました。それらを踏まえ、「1.農村歌舞伎の歴史的価値の再認識に向けた取組」、「2.地域における認知度の向上」、「3.新たな担い手の確保と人材育成」、「4.団体の運営費用の確保」の4つを支援の柱とし、それらを担う、大学機関、地域団体、企業、行政からなる組織による支援体制づくりなどを支援の方向性として取りまとめました。

これを基に、篠篠路歌舞伎保存会との意見交換路歌舞伎保存会と新琴似歌舞伎伝承会の両団体との意見交換を実施。団体からは、「地域の人にどれだけ(歌舞伎が)認知されているか悩んでいる」、「会員による公演会を行って継承していきたい」、「残された資料が少ない」、「もう少し企業や商店街などとの協力関係を拡大したい」などの活発な意見が寄せられ、「この歌舞伎を我々の代で絶やしてはいけない」と切実な思いが伝えられました。

伝統文化育成プログラム促進事業では、この後、団新琴似歌舞伎伝承会との意見交換体からの意見も踏まえて検討を続け、具体的な支援策として取りまとめ、実施していきます。

 

本事業は市民の皆様とともに進めてまいります。
ぜひご意見、ご感想をお寄せください。

 

 

農村歌舞伎の資料のデジタルデータ化

貴重な農村歌舞伎の資料を、デジタルデータ化し、保存しています

明治・大正期に実際に使用された手書きの台本、当時撮影された写真、舞台で着用した衣裳や小物、舞台を華やかに彩った引き幕。篠路歌舞伎、新琴似歌舞伎には、隆盛を極めていた往時をしのばせる品々が残されており、その一部は札幌市に寄付されて、篠路コミュニティセンター、プラザ新琴似において展示されています。これらは、地域の伝統文化として語り継いでいくための研究に必要なものであり、北区の歌舞伎を後世に残していくための資料として非常に重要な役割を果たします。

資料の中には、明治時代後期の紙製や布製のものもあります。伝統文化育成プログラム促進事業では、資料の劣化や損傷などの不測の事態に備え、常設展示されている札幌市所有の資料155点(篠路歌舞伎関連73点、新琴似歌舞伎関連82点)をデジタル化し、データファイルとして保存することにしました。

作業には5日間ほどをかけ、台本や写真などは、全てのページを一枚一枚丁寧に撮影。大切な資料を傷めないよう細心の注意を払って行いました。これらの資料は、後世に向けて保存・継承されるとともに、今後北区公式ホームページにおいて、多くの方の閲覧が可能な資料として活用すること等を計画しています。

大功記表紙大功記本文
太功記十段目の台本。中には演者の朱書きのメモが残る(新琴似歌舞伎)

舞台の引き幕
座長花岡義信の名が書かれた縦2メートル80センチ×横8メートル90センチの引幕(篠路歌舞伎)

トピック「戦前の農村歌舞伎を支えた人々」

田中松次郎と娯楽の殿堂「若松館」

新琴似歌舞伎が産声を上げたのは明治30年頃。鳥取県から開拓農民としてやってきた青年たちが中心となり、4番通番外地の小さな神社で歌舞伎芝居などを演じたのが始まりでした。座長格の田中松次郎は、芸名を「松楽」と名乗り、歌舞伎や義太夫といった伝統芸能を花咲かせようと、常設劇場「若松館」を建設しました。

その時の札幌警察署長宛ての「劇田中松次郎の写真場開設願」が、プラザ新琴似に残されています。開設は、明治43年12月。場所は、現在の新琴似7条1丁目、JR新琴似駅に程近い大型家具店が建つ辺りでした。館内には、舞台、花道、見物席、楽屋、便所のほか、警察官席も備えており、収容能力は310人で、当時の新琴似村の人口の半数を収容できる広さでした。

客席は、土間でムシロ敷き、見物人は座布団を持参したといいます。入場料は、大人十銭、子ども五銭で、週に1度開館し、午後5時から11時近くまで上演。歌舞伎、義太夫、新派劇、浄瑠璃、幻灯※などが行われていて、総合娯楽施設として大いににぎわいました。当時を知る人は「のぼりやちょうちんがいっぱい飾ってありにぎやかなものでした」と証言しています。

新琴似歌舞伎は最盛期を迎え、農村青年たちのほか、屯田兵二世も参加。50人の大所帯となり、「太功記十段目」「神霊矢口渡」など出し物に磨きをかけていきました。後に、幌向、岩見沢方面への地方巡業も行っていたそうです。
晩年の田中松次郎(昭和34年9月撮影と伝わる)
劇場開設願若松館図面若松館の閉館は、大正5年ごろ。映画時代の到来とともに、若者が歌舞伎から離れ経営が悪化したことが原因と言われています。建物は解体され、漬物工場の倉庫に。芝居小屋と共に新琴似歌舞伎も終焉を迎えました。“スター”であった往時を懐かしみながら農業に精を出していた田中も、昭和37年に85歳の生涯を閉じたのです。

現存する劇場開設願と図面

※ガラス板に描いた風景画や写真などに強い光を当て、映写幕に拡大して映して見せるもの。現在のスライドの原型。

【参考文献】
高橋克依(2009)「篠路村烈々布素人芝居」響文社
新琴似開基百年記念協賛会(1986)「新琴似百年史」
札幌市北区役所総務企画課(2007)「エピソード・北区」

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