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更新日:2011年2月14日

80.屯田兵から受け継ぐまちづくりの心

エピソード・北区

第10章:その他

72.新選組隊士北区での顛末記73.明治に既に雪まつりの原形が74.鳥人スミス北二十条を飛ぶ75.昭和二十年、炎の中に消える76.本格的な発展は終戦後77.隠された戦闘機と幻の滑走路、新琴似四番通78.札幌の味、そのふる里を尋ねて79.屯田のオリンピック候補選手80.屯田兵から受け継ぐまちづくりの心81.麻生商店街今昔物語82.風土が育てた正月の味83.銭湯全盛のころ昭和46年北区銭湯マップ

80.屯田兵から受け継ぐまちづくりの心

 

屯田兵から受け継ぐまちづくりの心1

大正8(1919)年の屯田地区。豊かな水田地帯となり、田植えは家族総出で行われた

屯田兵から受け継ぐまちづくりの心2

屯田夏祭りでそのきらびやかな姿を披露した「屯田みこし」。地域の人たちから大きな掛け声を掛けられていた

屯田兵の入植から水田地帯へ

屯田。北海道に住む人々は、この言葉には独特の響きを感じるのではないだろうか。明治8(1875)年に初めて琴似村に入植して以来、屯田兵は道内各地に入植したが、今、札幌市内で屯田の名を町名として残す所は北区の屯田地区のみである。当時、篠路兵村と呼ばれたこの地には、明治22(1889)年に開拓の鍬(くわ)が下ろされた。
屯田兵たちが苦労して開墾を続けたこの地は低湿地帯であり、一度洪水が起こると作物が大きな被害に遭い、離散する人々が後を絶たなかった。
そこで、屯田地区に住む人々は地域経済の立て直しと農家の経営安定を目指して造田計画を実施し、約680ヘクタールの水田が完成した。屯田地区には豊かな水田地帯が生まれ、稲穂が広がっていった。

新しいまちづくりへ

しかし高度経済成長を背景とした昭和45(1970)年からの国の減反政策や札幌市の急速な発展により、屯田地区にも宅地化の波が押し寄せた。農地が次々と姿を消し、住宅団地が造成され、今では一戸建てやアパートなどが立ち並ぶ住宅街が大きく広がっている。
まちの様子が一変するにつれて、住民の地域への思いも変わっていった。代々農業を営んできた屯田兵の3代目に当たる坂田文正(さかたふみまさ)さんには、昭和47(1972)年に初代屯田連合町内会長となった父親の故坂田勝(まさる)さんの言葉で今も記憶に残っているものがある。「これからは新しい屯田のまちづくりのための屯田兵になろう」この言葉には、さまざまな県から入植し、力を合わせて原野を切り開いた屯田兵たちのように、屯田兵の子孫の人々と新たに屯田に移り住んできた人々が共に協力し合い、住み良いまちを作っていこうという思いが込められていた。
この思いは徐々に住民の間に広がっていった。それを示す出来事が昭和63(1988)年の屯田開基100周年事業。地域住民自らが事前の準備に奔走し、また住民から多くの寄附も集まり、作家遠藤周作氏の講演会や札幌交響楽団の演奏会など数々のイベントが繰り広げられたのである。
それから15年。現在、屯田連合町内会長を務めている平木行雄(ひらきゆきお)さんは、まちへの熱い思いをこう語る。「これからは、住民が一丸となってまちづくりを進めていくことがより重要になってくると思います。幸いにも屯田には、屯田太鼓や屯田音頭、屯田みこしといった地域の文化があります。これらの文化を通じてまちへの愛着が深まれば、屯田に住む人たちのお互いの理解も深まるのではないでしょうか。今後も住民の皆さんとともに屯田兵の開拓精神を持ってまちづくりを進めていきたい」
水田地帯から住宅地へとその姿を変えた屯田地区。この先、まちが移り変わっていっても、屯田兵の開拓精神は脈々と受け継がれていくことだろう。

(「新・北区エピソード史(平成15年3月発行)」掲載)

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