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72.新選組隊士北区での顛末記|73.明治に既に雪まつりの原形が|74.鳥人スミス北二十条を飛ぶ|75.昭和二十年、炎の中に消える|76.本格的な発展は終戦後|77.隠された戦闘機と幻の滑走路、新琴似四番通|78.札幌の味、そのふる里を尋ねて|79.屯田のオリンピック候補選手|80.屯田兵から受け継ぐまちづくりの心|81.麻生商店街今昔物語|82.風土が育てた正月の味|83.銭湯全盛のころ昭和46年北区銭湯マップ
昭和初期に完成した鉄骨の火の見やぐら。現在の新琴似8条4丁目付近にあった(写真提供:平井勇光さん)
火の見やぐらに付いていた半鐘
昭和20(1945)年、7月。真夜中の新琴似四番通をひそかに移動する複数の戦闘機の姿があった。このころ陸軍航空省に所属し、丘珠飛行場で機体整備の勤務に従事していた、当時14歳の川俣浩(かわまたひろし)さんはこう話す。「確かに戦闘機を隠しに行った。丘珠飛行場から新琴似四番通を抜け、場所は定かではないが、付近の森のような所へ1機を10人くらいが力を合わせて手で押して隠しに行った。自分は2回。あれは7月14日の夜でした。翌日に空襲があったのではっきりと覚えています」
戦闘機は「掩体(えんたい)」と呼ばれた格納庫へも隠された。これは鉄筋コンクリート製のかまぼこ型で、上部を草や木でカムフラージュしたもの。丘珠近郊や石狩の防風林の中などに終戦時まで造り続けられた。
そのような中のある日、丘珠飛行場から発進する戦闘機「隼(はやぶさ)」を、大勢の人々が大きく手や帽子を振りながら、見送る光景があった。滑走路を端から端までいっぱいに使い、やっと飛び立った隼には200キロ爆弾がくくられていた。川俣さんの話によると、隼は15キロか30キロ爆弾の脱着装置しか備えておらず、200キロ爆弾を自操投下することはできないとのこと。また、どこかへ輸送するにしても地面すれすれの胴体に大型爆弾があっては、その着陸は不可能であっただろう。「操縦室の開いた天がいからはためく操縦士の純白の襟巻きが、今も目に残る」と川俣さんは話す。
そして、同年8月14日。丘珠飛行場の隼第54戦隊は樺太への移動を命じられ24機が発進した。しかし、名寄上空で突然、全機引き返せとの命令を受け丘珠飛行場に帰還。そして翌日の終戦。
やがて丘珠飛行場もアメリカ軍に接収され、必死で守り隠した戦闘機はガソリンを掛けられ黒煙を上げながら焼却された。
新琴似四番通は、屯田兵が入植以前の明治18(1885)年に陸軍省による兵村の区画割りによって開削された。翌年、今も現存する屯田兵中隊本部兵舎が建築され、通りを挟んで錬兵場ができ、その後、屯田兵の第一陣を迎え、発展する。明治末期には、北は花川南まで伸び、札幌中心部へは西五5目通を経てつながっていく。
この札幌までの通りは当時、「大根道路」とも呼ばれた。漬物の季節になると山と積まれた大根(新琴似大根・篠路大根)をてんびん棒で担いだり、馬車やリヤカーに積み、札幌へ売りに行ったりする農家の人々でにぎわったからで、運搬方法は変わったものの、この光景は戦後しばらくの間まで続いていた。
昭和16(1941)年、新琴似四番通では軍用道路として拡張工事が始められた。第2次世界大戦開戦のこの年、石狩の樽川に軍用機格納庫が建設されることと並行しての工事であった。昭和19(1944)年11月、工事は徴用により一般市民や各種団体をも大勢動員し、大規模なものへとなっていった。「四番通を軍用機の滑走路にする」というのは公然の秘密だったという。戦火の中、電柱や沿道の樹木は倒され、砂利や石を敷き詰めて工事は強引に進められた。高さ10メートルの鉄骨で造られた消防の火の見やぐらも撤去された。このやぐらの上部に付いていた半鐘は、現在、屯田郷土資料館に展示され、見学することができる。
そして間もなく終戦。この工事は完成を見ぬまま終了された。しかし、幻の滑走路、新琴似四番通を確かに戦闘機は移動し、闇に消えた。
(「新・北区エピソード史(平成15年3月発行)」掲載)
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