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ホーム > 北区の紹介 > 歴史と文化 > エピソード・北区 > 第10章:その他 > 78.札幌の味、そのふる里をたずねて-竹家のラーメン

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更新日:2023年1月5日

78.札幌の味、そのふる里をたずねて-竹家のラーメン

エピソード・北区

第10章:その他

72.新選組隊士北区での顛末記73.明治に既に雪まつりの原形が74.鳥人スミス北二十条を飛ぶ75.昭和二十年、炎の中に消える76.本格的な発展は終戦後77.隠された戦闘機と幻の滑走路、新琴似四番通78.札幌の味、そのふる里を尋ねて79.屯田のオリンピック候補選手80.屯田兵から受け継ぐまちづくりの心81.麻生商店街今昔物語82.風土が育てた正月の味83.銭湯全盛のころ昭和46年北区銭湯マップ

78.札幌の味、そのふる里をたずねて-北大前に初の中華専門店-

竹家のラーメン

 

王文彩

昭和10(1935)年ころの「竹家」。従業員の数がその繁盛ぶりを示している

北国札幌の味を代表するラーメン。戦前すでに札幌で普及していたことを知る人は少ない。今、札幌におけるラーメンのルーツをたどってみよう。

ラーメン生みの親“王文彩(おうぶんさい)”

小作争議や工場閉鎖が相次ぎ、不況が深刻化していた大正11(1922)年。北大の中国人留学生に付き添われた一人の同胞人が北9条西4丁目の「竹家和食店」を訪れた。王文彩といい、腕の良い調理人であることを説き、雇ってくれと頼んだ。経営者の大久昌治さんは、はかばかしくない店の経営から中華料理への転向を決意し、彼を雇い入れた。
「竹家」の長男で、当時小学校の3年生だった大久陞(のぼる)さんが初めて王文彩に出会った時、中国服を着た西郷隆盛のように感じたという。頭は丸坊主、歯は異常に長く、大きな目を見開き、そして態度が悠然としていたからである。
早速、看板も支那料理「竹家」に書き改められた。
ここに北海道で初めての中華料理専門店「竹家」が誕生した。ここの料理に、塩味を効かせしょうゆで色付けをし、スープの中にちぢれた歯ざわりのよい麺(めん)、そして支那竹とネギを添えたものがあった。王文彩が作った麺料理で後に「ラーメン」と呼ばれるものである。
初めは、訪れる客も少なかったが、当時、北大には中国人留学生が大勢いただけに、これが引き金となり、「竹家」に出入りする留学生は急増した。そして、130人から180人の留学生が、1日3食の食事に来るようになり、客の絶え間がなかった。そのころの中国人留学生は裕福な家庭の子息たちが多く、放課後「竹家」に来る時はみな立派な背広に着替え学生には見えなかったという。また、台湾にいたことのある北大教授の今裕さん(医学部長、のち学長となる)は、ことのほか竹家の味が気にいったようで、同僚や友人を伴い、興がのると日本人好みの味について、ひと講釈したようである。おかげで北大の学生や職員、そして周囲の評判を呼び、客も増えていった。

「ラーメン」と命名

徐々に、日本人客も増えてきたが、留学生で満員の店に入って来る客の中には柄の悪い者も多くおり、留学生たちにとっては決して快い響きではなかった「チャンソバ」その他、中国人の気分を悪くする言葉を使う者も少なくなかった。
留学生によって繁盛している「竹家」にとっては申し訳ない気持ちでいっぱいだったという。だから、この中国の新しい麺料理の命名については竹家では大変苦心したようである。この麺料理の価格とともに品名を壁に張り出した。
まず、はじめが「肉糸麺(ロースメン)」。よく売れたが、まともに名前を言う人は少なかった。それで「柳麺(リュウメン)」と品書きを替えた。「竹家」の庭にウンリュウヤナギが生えており、麺の感じがこの柳に似ていたからである。だがこれも駄目。
そこで麺を引き伸ばすという意味から「拉麺」と書きラーメンと読ませた。これは注文の品ができ上がった時、できましたの意味で「好了(ハオラー)」と発音するラーがいかにも中国語的な快い響きをもっていたからである。
それ以来、客は不思議と「ラーメン」と言って注文してくれるようになったという。この言葉が定着したとき、「竹家」のおかみであるタツさんは余程うれしかったらしい。後々までも「ラーメン」の名付け親は大久タツであると孫たちに自慢していたという。この「ラーメン」という品名には、中国人に対する日本女性の温かい愛情が秘められているのである。

普及そして戦火…

当時、調理人の月給は5~10円であったが、王文彩は破格の50円であった。そのため、かなりの蓄えもできたようで、大正13(1924)年ころ、独立しようと小樽へ旅立っていった。
竹家では、後任の調理人を募集したが、待遇のよさを伝え聞いて、神戸、大阪などから10数人もの中国人調理師が訪れたという。王文彩の後がまには、李宏業がおさまり、さらに日本人向けの味にし、ますます好評を博した。
やがて、市内の喫茶店でもそのメニューに柳麺、老麺と書かれ盛んに売られるようになる。
しかし、ラーメン生みの親である王文彩は小樽で飲食店の経営に失敗。札幌に舞い戻ったが、恵まれることなく、昭和7(1932)年ころ南3条西4丁目角にある常盤湯の2階で、寂しくこの世を去った。皮肉にもラーメンが市民に認められた、ちょうどその時期でもあった。その後、竹家は太平洋戦争最中の昭和18(1943)年、物資統制による原料不足から閉店。やがて札幌からラーメンの姿は消えていった。
戦後になって、独特な味をうたい、札幌名物といわれるようになったラーメン。それは、日本人的な味覚が札幌の風土の中で開花したものであろう。しかし、その土壌は戦前すでにつくり上げられていたのである。

幻のラーメンの味

 

竹家で使われていたどんぶり

竹家のラーメン4

 

昭和61(1986)年4月15日、テレビの収録のため、王文彩が札幌で初めて作ったという「竹家」のラーメンが再現された。「竹家」のメニューに載った大正11(1922)年から実に64年、閉店した昭和18(1943)年からでも43年ぶりである。挑戦したのは「竹家」の長男で、大阪で中華料理店を経営する大久陞(のぼる)さん(73)。しかも一(ひと)月前、当時のお得意さんの家から偶然みつかったという「竹家」で使われていたラーメン丼(どんぶり)に盛られての復活であった。
札幌ラーメンの原点である竹家のラーメン。その調理方法は、スープが、卵を産まなくなった地鶏のメス一羽と豚のスネ肉などの部分をミンチにしてまぜ、これに水を入れて一時間半煮たもの。麺は小麦粉をかん水(天然ソーダ水)だけで練り上げ、添加物は一切なし。具は千切りにしたモモ肉、サヤエンドウ、タケノコとネギの千切りにしたものである。
ゲストとして立ち会った落語家・林家木久蔵さんらは「あっさりした味が何とも言えない」「やさしい舌ざわりに感心しました」と絶賛した。

(「広報さっぽろ北区版昭和53年12月号」・「続・北区エピソード史(昭和62年3月発行)」掲載)

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