ホーム > まちづくり・地域の活動 > 情報を発信します > とよひらふるさと再発見 > 中の島地区
ここから本文です。
昭和2年、河合才一郎氏が自己資金4万円を投じて建設。札幌の中心部との往来が便利になり、中の島の発展につながった。この橋は、交通量が多くてかなりいたみ、昭和29年6月に永久橋となった。平成7年10月10日に、現在の橋が開通。
〔所在地〕中の島1条4丁目
この地域で盛んに栽培されていたリンゴを保存するため、大正初めに石造りの倉庫が次々と建設された。その後リンゴ園は消え、残っていた最後の倉庫も令和3年に解体された。
〔所在地〕中の島1条3丁目8-14
この地域で盛んに栽培されていたリンゴを保存するため、大正初めに石造りの倉庫が次々と建設された。その後リンゴ園は消え、残っていた最後の倉庫も令和3年に解体された。
〔所在地〕中の島2条1丁目
明治時代、中の島地区の子供たちは豊平小学校や東小学校に通っていた。その後、道路が整備され平岸小学校が校区となったが、子供の増加に伴い昭和40年に中の島小学校が開校した。
〔所在地〕中の島2条1丁目
山下氏は、大正末期から、中の島神社から豊中公園にかけてあった池で氷を採取していたが、後に水質汚染で天然水がとれなくなり、昭和12年に製氷工場を建設して同30年まで機械氷を製造した。その後、市内の氷店が札幌製氷共同組合を設置し、近年まで同工場をそのまま使用していた。
〔所在地〕中の島2条2丁目4
昭和11年、千歳から移転。同26年頃までさけますのふ化を行った。大規模な金魚池で、多くの鯉や金魚も飼っていた。現在は、国立研究開発法人水産研究・教育機構 北海道区水産研究所と統合され、道内のふ化場などの管理指導や調査研究を行っている。
〔所在地〕中の島2条3丁目7-35
明治10年頃、開拓者が地域守護のため、現在の中の島1条2丁目の大木にまつったのが最初といわれている。大正初期に現在地に移転。地域住民で組織された神社運営委員会が祭礼(9月10日)などを行い、祭礼の日には子供相撲が奉納されている。
〔所在地〕中の島2条6丁目
大正13年、伏木田隆作氏が自動車運転技能教授所を設立。昭和36年まで道内唯一の自動車学校で、道内各地から免許取得に集まった。昭和6年頃は講習期間は1年間で、学費は77円であった。
〔所在地〕平岸1条7丁目1-2
平岸地区68番をご参照ください。
〔所在地〕中の島2条3丁目7-35
樹齢200年以上のハルニレの木。2本の御神木には「地の神」が宿っていると伝えられ、触れると足腰の疲れ、肩凝りなどに良いと言われてきた。
精進川は、明治中期から定山渓鉄道が開通する大正7年まで、木材の搬送に利用された。定山渓で切り出された丸太を豊平川に流し、中の島1条11丁目付近で精進川に送り、中の島1条1丁目付近で引き揚げ馬車で札幌に運んだ。精進川の滝は、平岸1条17丁目9。平岸の河岸段丘は、西野集塊岩層により形成された。当時この河岸段丘が切れる川尻付近に滝があり、そこをアイヌ語で「オ・ソ・ウシ」といったので、それが転じて精進川と呼称されるようになった。
大正時代は、幅3間(5.4メートル)の悪路だったが、米軍キャンプから炭がらをもらい、敷き詰めて平らにした。
〔所在地〕中の島2条6丁目~7丁目
大正11年頃から昭和12年頃まで、精進川と南22条橋の両側に5ヶ所、幅255メートルの池を作り、天然氷を年2回採取した。切り取った氷は馬車で札幌まで運び、冬のリンゴ園の貴重な収入源となっていた。
〔所在地〕中の島1条2丁目
昭和4年、岩崎氏がスキーを曲げるための酸素の工場として日北酸素(株)を建てた。当時、道内の酸素会社は小樽と函館にしかなく、業務用の酸素が不足していた。後に酸素吸入用にも使われ、昭和54年に移転した。
〔所在地〕中の島2条8丁目
昭和6年に設置された小原煙火製造所。運動会などの信号、花火大会、家庭用にと花火は人々に楽しみと夢を与えてくれた。花火の爆発火災が2度も発生し昭和48年に広島町(現北広島市)に移転した。
〔所在地〕中の島1条14丁目
自然湧水。冷たくておいしい水だったので、昭和45年頃まで、人、馬の飲み水などに利用した。その後の水質汚染で、飲み水としては不適になり、現在は庭園の池の水に供し鯉を飼っている。
〔所在地〕中の島1条3丁目1
中の島地区における火の見やぐらとして、また戦時中の敵機襲来に備えて建立された、約12メートルのやぐらにつけられていた半鐘。昭和20年代まで使用されたがその後取り壊された。
〔所在地〕中の島2条6丁目2
中の島地区における火の見やぐらとして、また戦時中の敵機襲来に備えて建立された、約12メートルのやぐらにつけられていた半鐘。昭和20年代まで使用されたがその後取り壊された。
〔所在地〕中の島1条、2条3丁目~10丁目
当地で最初にリンゴの栽培を始めたのは、大正2年岐阜県から移住した川村氏である。中の島のリンゴは色も味も良く、大変な評判で栽培面積も増えていった。今の中の島2区がその主な生産地であった。
〔所在地〕中の島1条、2条1丁目~3丁目
明治30年に苗穂から谷氏が入植し約8ヘクタールの土地にブドウを植えたのが最初である。大正2年に吉田氏が買い取り「吉田ブドウ園」と名付け、昭和5年頃まで黒ブドウ、茶ブドウを生産していた。
〔所在地〕中の島1条4丁目~6丁目付近
明治から幌平橋が完成するまで、中の島と山鼻の間に鉄線を張って舟渡しをしたといわれる。
〔所在地〕中の島1条、2条1丁目~2丁目
昭和10年頃から、札幌ススキノのお座敷として、次々に料亭や割烹が登場してにぎわった。戦争前後、物資の不足などから次第に消えていった。
〔所在地〕中の島1条3丁目
大正末期のころから、豊平川の堤防沿いに鶏が飼われ始め、とり屋町と呼ばれた。卵を買ったり、とり料理を食べる人で大変にぎわった。その後、戦争でえさが入らなくなり、病気も発生して衰退した。
〔所在地〕中の島1条1丁目5
昭和5年、河合才一郎氏が建築した料亭。地下鉄開通後、急速な街の発展により、昭和53年に姿を消した。跡地に建つマンションの東側には、私費を投じて幌平橋を架けた河合氏の偉業をたたえた幌平橋架設記念碑が建っていたが、令和6年に撤去された。
このページについてのお問い合わせ
Copyright © City of Sapporo All rights Reserved.