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昭和20(1945)年6月になると、札幌にも米軍の偵察機が飛来し、空襲警報が発令され始めます。このため、空襲に備えて人口集中地域の建物を壊して移転する建物疎開が行われました。焼夷弾の延焼を回避する目的で防空空地がつくられ、豊平橋から市内に入る南4条通は西11丁目までL字型に建物が壊され、道路幅が拡張されました。市民も疎開の後片付けに動員されました。この他にも狸小路など市内数か所で強制疎開が行われ、合計2127戸が疎開しました。建物疎開は補償されましたが、市設小売市場が閉鎖されたり、商工業者は転廃業を余儀なくされました。