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72.新選組隊士北区での顛末記|73.明治に既に雪まつりの原形が|74.鳥人スミス北二十条を飛ぶ|75.昭和二十年、炎の中に消える|76.本格的な発展は終戦後|77.隠された戦闘機と幻の滑走路、新琴似四番通|78.札幌の味、そのふる里を尋ねて|79.屯田のオリンピック候補選手|80.屯田兵から受け継ぐまちづくりの心|81.麻生商店街今昔物語|82.風土が育てた正月の味|83.銭湯全盛のころ昭和46年北区銭湯マップ
各家庭にお風呂が当たり前にあるこの時代、すっかり足が遠のいてしまった銭湯。しかし内風呂が少なかった昭和半ばまでは、区内にもたくさんあり、「庶民のささやかな憩いの場」どころではなく、なくてはならない場所として威風堂々と存在していた。
札幌の銭湯の歴史は札幌市街がその体裁をつくりはじめた明治3(1870)年、中央区で始まった。そして最もにぎわっていたのは、昭和46(1971)年ごろ、区内だけでも33軒(札幌公衆浴場商業協同組合加盟数)を数えた。赤ちゃんからお年寄りまで、いろいろな人が集い、世間話やうわさ話に花を咲かせ、大きな湯船につかり至福の時を共有した。特に小学校などの運動会があった日などは子どもの鉢巻き姿もそのままに、その家族もドッと押し寄せ、汗とほこりを流し、一段とにぎわいを見せていた。
お客の数も多かったので当然、広告物もいろいろと目にすることができた。鏡や壁、おけや腰掛け――。近所の商店や会社、全国的な薬品メーカーの商品名などがひっそりと表示されていたその中で、絶大な広告効果があったのは、脱衣所に張られていた映画ポスターである。
当時、銭湯同様、数多くあった映画館の上映ポスターが2、3枚、縦に連なって張られていた。洋画、邦画とも勢いがあったこの時代は「イージー・ライダー」や「非牡丹博徒」などの映画、そして「日活ロマンポルノ」のポスターなどが脱衣所の壁を占領していた。
入浴料金は当時、大人38円、中人20円、小人10円であった。昭和47(1972)年までは婦人洗髪料というのもあり、女性が洗髪するときは、入浴料のほかに3円を番台に支払い、「洗髪札」を受け取って洗い場の自分の前に置いていた。
浴室の大きく深い湯船に、たっぷりのお湯。たまに民謡や浪花節のうなり声が響いた。熱い湯が好みの大人に、水で薄めようとしてしかられていた子ども。洗い場の蛇口は青と赤の2色があり、水とお湯をおけに入れ、適温にして使った。ここでも子どもたちは冷水だけをおけに取り、手で掛け合ってはしゃいでいた。天井が高く広い浴室は、伸び伸びと開放感があったので、おけを枕にうたた寝をしているおじいさんなども見掛けた。
風呂上りの牛乳も銭湯の楽しみで、白、コーヒー、フルーツなどのほか、ラムネやサイダーなどのあの清涼感はたまらないものであった。ちなみに牛乳は25円だった。
そのころの日本は、次のようなことが起こっていた時代であった。
昭和45(1970)年、大阪万国博覧会が開催。日航機「よど号」のハイジャック。三島由紀夫自決。カップヌードルの登場。北の富士が横綱に昇進。
そして昭和46(1971)年、大横綱大鵬が引退。ちまたでは「また逢う日まで」、「わたしの城下町」、「よこはまたそがれ」などの流行歌が流れ、札幌では地下鉄南北線北24条-真駒内間開通。翌年、札幌冬季オリンピック大会が開催され、ジャンプ競技で日の丸飛行隊が大活躍し、道民はもとより日本中を沸かせていた。
昭和46(1971)年北区銭湯マップ
(「新・北区エピソード史(平成15年3月発行)」掲載)
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