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72.新選組隊士北区での顛末記|73.明治に既に雪まつりの原形が|74.鳥人スミス北二十条を飛ぶ|75.昭和二十年、炎の中に消える|76.本格的な発展は終戦後|77.隠された戦闘機と幻の滑走路、新琴似四番通|78.札幌の味、そのふる里を尋ねて|79.屯田のオリンピック候補選手|80.屯田兵から受け継ぐまちづくりの心|81.麻生商店街今昔物語|82.風土が育てた正月の味|83.銭湯全盛のころ昭和46年北区銭湯マップ
大正5(1916)年6月17日付「読売新聞」は、5面トップ記事でスミスの墜落事故を報じている。掲載の写真には「あゝこの人地に堕ちて傷けり」の説明がある=読売新聞社提供
その日は、札幌市街がからっぽになるほどの騒ぎだった。
大正5(1916)年6月15日。米人アート・スミスは、札幌郊外の草地を「即席飛行場」に仕立て、観衆に数々の冒険飛行を披露している。離着陸したゆかりの場所は、今の北20西4に位置する。
「若い衆に交り、老人は人力車で見物に架け付けた。"ありがたいことだ。長生きしたおかげでこんなものが見られる"といいながら仏を拝むように手を合わせていた」こう回想する上井源蔵さん(90)はスミスの冒険飛行を目撃した一人である。
当時、人間が空を舞う鳥のごとき術は、月面着陸以上の驚異であった。人々はアメリカのこの超能力者を「鳥人スミス」と呼び、あげくは「スミス飛行士の歌」までつくって英雄に祭りあげた。しかし、初飛行の翌16日のことである。午後3時15分。この日2回目の飛行が始まった。
スミスのカーチス式複葉機が高度7、80フィートに上昇するやいなや、発動機が突然止まり、機体は宙返り飛行のように風を切って墜落、大破した。
大正初期の飛行機は事故を背負って飛んでいたようなものとはいえ、名飛行家・スミスの墜落事故は信じられないことであった。東京の大手新聞も「世界航空界の一大損失」「鳥人空前の事変」などの見出しで大々的に報じた。この惨劇を目のあたりにした見物人が、墜落現場にドッと詰めかけ、北20条周辺は大混雑。
警官隊の出動整理で、やっとスミスは、区立札幌病院にかつぎ込まれた。間もなく意識を取り戻した彼は、奇跡的にも全治1カ月、右足大腿部の骨折で済んだ。
しかし、鮮やかな飛行を全国各地でやってのけたスミスも、右足負傷には勝てず、予定されていた他の地方の航空ページェントは取り止めになっている。
ライト兄弟が世界最初の動力飛行に成功したのが明治36(1903)年、日本最初のものは徳川好敏の明治43(1910)年である。
この飛行はライト兄弟に遅れること13年。"空の文明開化"は比較的早かったといえる。
(「広報さっぽろ北区版昭和51年2月号」掲載)
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