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72.新選組隊士北区での顛末記|73.明治に既に雪まつりの原形が|74.鳥人スミス北二十条を飛ぶ|75.昭和二十年、炎の中に消える|76.本格的な発展は終戦後|77.隠された戦闘機と幻の滑走路、新琴似四番通|78.札幌の味、そのふる里を尋ねて|79.屯田のオリンピック候補選手|80.屯田兵から受け継ぐまちづくりの心|81.麻生商店街今昔物語|82.風土が育てた正月の味|83.銭湯全盛のころ昭和46年北区銭湯マップ
記録章受賞記事「清新なるそのフォームは後輩に教えるものがある」と小樽新聞が掲載(昭和15(1940)年5月11日)
日本新記録を出した時の勇姿
「このユニークな競技は、何と言うのだろうか?腕を前後に大きく振り、腰を左右に動かしながら、早歩きを競い合っている」昭和6(1931)年、全道陸上競技大会を見ていた篠路兵村(現・屯田)の宇藤保(うとうたもつ)さん(67)が初めて競歩に接したときの感想である。村の運動会では、誰にも負けない脚力を見せ、競技の世界にそろそろ関心を持ち始めていた時期である。この大会で顔見知りとなった喜多見選手と親しくなる機会を得てからすっかり競歩に魅了され、自己の力をその中で試そうと決意。日暮れとともに練習する日課が始まった。
武道などスポーツが盛んな屯田の地から、一人のヒーローが巣立ったのは昭和10(1935)年のことである。競技生活に入って、初出場の全道大会5万メートル競歩に堂々3位入賞。練習にも一段と熱が入り、昭和12(1937)年には北海道新記録で優勝。この記録は、30年間破られることがなかった。また、現在の国民体育大会に当たる神宮大会兼日本選手権では4位入賞。そして、翌年には全道大会5千メートル競歩で24分22秒6の日本新記録を樹立。北海道に“宇藤有り”と全国にその名を高めた。そしてこの年、東京オリンピック(昭和15(1940)年開催予定)5万メートル競歩の第一候補選手に選ばれる。屯田のヒーローが世界のひのき舞台への切符を手にしたのである。
村民の盛んな声援を背に受け、上京。青山青少年会館で合宿に入り、猛練習を重ねる。しかし、時の情勢は、非情にもその努力には報いてくれなかった。日華事変などの戦火拡大に伴い、東京オリンピックは中止。幻のオリンピック選手となった。「青春の炎を燃焼し尽くし、幾多の友人を得た。この当時の思い出は決して忘れられない」と宇藤さんは述懐する。
戦雲も去った昭和25(1950)年、鹿児島大会での出来事である。「どうも靴が合わない。ままよ」とばかり放り投げ、はだしで出場。観衆からヤンヤのかっさいを浴び5位入賞。こんな一面もあった。
彼は努力の人であり、研究家でもあった。昭和15(1940)年、小樽新聞(現・北海道新聞)は記録章を贈るとともに「宇藤選手の練習は農業のかたわら営々として自己の力を信頼し、やむことなく精進する気力こそ、今日の彼をあらしめたものであろう」とその努力に賛辞を贈っている。
長年競歩に情熱を燃やした宇藤さんも年齢には勝てず、昭和28(1953)年の日本選手権を最後に現役を引退。ときに42歳であった。その後、選手育成に尽力。日本を代表する選手を幾人か育て上げた。競友であり、現在も競歩界の指導者である奈良岡健三さん(67)は「宇藤さんは、北海道における競歩の草分けですよ。その人柄が慕われ、選手たちからお父さんと尊称されています」と語る。
いまも宇藤さんは昔日の栄光を誇ることなく、屯田の街並みを心静かに走っている。
(「広報さっぽろ北区版昭和53年8月号」掲載)
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