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更新日:2011年2月2日

9.語源はアイヌ語?-篠路烈々布

エピソード・北区

第1章:太古から開拓へ

1.遺跡から先史を辿る2.奈良時代の北区を探る3.篠路に石狩初の農村づくり4.幕末、篠路に入地5.親族の反対をおしきった開墾魂6.殿様の余剰武士対策7.北辺の理想郷目指し8.南部盛岡藩士が入植9.語源はアイヌ語?10.地名に刻まれた歴史

9.語源はアイヌ語?-「道で切られた川」-

篠路烈々布

 

語源はアイヌ語?

烈々布地蔵碑(右)と、かつての烈々布公民館

地名には旧称、俗称がよくある。ふるさとを思うとき、この俗称がいかにも懐かしく、よみがえる。"篠路烈々布"凍てつく原野をほうふつとさせるが、今、区内でこの名は「烈々布会館」と「烈々布地蔵尊」にしか残っていない。
かつて、篠路村の中に烈々布部落と呼ばれる地帯があった。この部落は明治16(1883)年、福岡県人の入植により産声を上げたが、本格的に開拓されたのは、明治21(1888)年の石狩街道開削以降のことである。入植時、この一帯は泥炭地であり、土地改良のため排水溝を掘るなど、開墾には大変な苦労をしたという。

地名の由来を求めて

今ここに、国土地理院が大正5(1916)年に作成した地図がある。これによると、烈々布の範囲は丘珠、札幌、篠路の各村にまたがった広い地域で、東は伏籠川を境界として西の石狩街道まで、南は北20条辺りから北の太平地区に及んでいる。
地名の由来について、今でも幾つかの話が地元の古老から聞かれる。その第1が、アイヌ語で「ハンノキの多く茂る所」、「風の強いところ」の意味を持つとするものである。しかし、アイヌ語への音訳では、どうしてもレツレップとはなり得ない。第2に、入植者が郷里の地名をつけたという説がある。だが、移住者の出身地には該当する地名は見当たらない。第3には、明治9(1876)年丘珠に入植した清国移住民が母国語で命名したという説もあるが、「烈々布」という言葉自体に意味を持たないこと、入植地がかけ離れていることからも、これは無理なようである。
では、現在に残る記録をたどってみよう。明治期に記録された『除籍簿』、『篠路村沿革史』によると、すべて「レツレップ」と片仮名で記録されている。漢字は、大正期に入ってからしか見当たらない。このように開拓当初からカタカナを使用していたこと、開拓前、伏籠川のほとりには先住民族であるアイヌが住んでいたことからも、語源がアイヌ語であることは、ほぼ間違いないところであろう。
烈々布の入植は、伏籠川流域から始まっている。そこで、この地の明治初期における状態を克明に語る『札幌県治類典附録』『土地払下願簿』(道・行政資料室)を調べると「レツレフ川」「レレツプ古川」の河川名が出てくる。また、この地の字名としても表れている。
名称の音表示が不統一なのは、アイヌ語の発音が、難しいからであろう。
最も信頼のおける明治15(1882)年、札幌県勧業課作成の『札幌県石狩国札幌郡札幌村・丘珠全図』にあてはめると、払い下げ地の所有者が一致するとともに、「レツレップ古川」の名称をただ一つ、河川名としてだけ見いだすことができる。「プ」の音が、アイヌ語で川を意味し、その川が重要な生活の場であったことなどを考え合わせると、「レツレップ」とは川の名に始まったと推論していいようだ。

レツレップ古川の流れ

札幌村・丘珠全図によると、この川は元村(現・東区元町)に始まり、丘珠村と札幌村との村境を通り、篠路村に流れ込んでいる。
始点である伏籠川から分岐する元村の地は、石狩と札幌を結んでいた旧石狩街道(現・茨戸篠路線)によって、いかにも人為的に埋められたように切断されている。
ここに何か意味があるのではないだろうか。アイヌ語研究家の藤村久和さんは「烈々布の語源は、アイヌ語であることが確証されたと思う。道で寸断され、孤立している川の状態から、ル・エ・トイェ・プ(ru-e-tuye-p)、"道がそこで(川を)切っているもの"と音訳できるようだ」と考察する。
やがて、昭和期に入りレツレップ川は、丘珠飛行場の建設や札幌の著しい発展により、埋め立てられ、現在に何もとどめてはいない。烈々布の名も同じ運命にあるのだろうか。

(「広報さっぽろ北区版昭和54年2月号」掲載)

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