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ホーム > 北区の紹介 > 歴史と文化 > エピソード・北区 > 第1章:太古から開拓へ > 4. 幕末、篠路に入地-開拓農民早山家

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更新日:2011年2月1日

4. 幕末、篠路に入地-開拓農民早山家

エピソード・北区

第1章:太古から開拓へ

1.遺跡から先史を辿る2.奈良時代の北区を探る3.篠路に石狩初の農村づくり4.幕末、篠路に入地5.親族の反対をおしきった開墾魂6.殿様の余剰武士対策7.北辺の理想郷目指し8.南部盛岡藩士が入植9.語源はアイヌ語?10.地名に刻まれた歴史

4.幕末、篠路に入地

開拓農民早山家

 

 

幕末、篠路に入地

初代清太郎はこの猿田彦の面をつけて、今でいう「札幌まつり」の先導役をつとめた=北海道神宮蔵

北区篠路出張所前から北へ15分ほど歩いたところに、早山(そうやま)という農家がある。徳川時代の後期、すでにここに住みついていたというだけに、庭の赤松、オンコ、モミジの樹々は、いかにも古い年輪を感じさせる。120年も昔、祖先が植えたものだ。
この家はかつての北海道小学郷土読本に、「札幌でもこの人より早く来た人がないのだぞ。札幌神社もこの爺さんが場所をお選びしたんだとさ」と書かれた早山清太郎以来の家柄である。
清太郎が郷里の福島県西白河郡からエゾ地に渡ったのは、嘉永5年(1852)。北区役所保管の除籍簿から推察すると、妻マツ、8歳になる長男・茂一郎が一緒である。
この年から清太郎は、松前で4年間人夫として働いている。その後、小樽ではニシン漁、張碓の漁場では菓子を売ったり、毛皮商人の手伝いなどをしたりして、その日暮らしの生活を続けた。
篠路に入地するのは安政6年(1859)、吉田松陰らが刑死した安政の大獄のあった年である。
「水害や悪天候のために、彼の水田は廃絶してしまったが、石狩地方の稲作の発展は、彼が早くから水田を試み、その結果が良好であったことに起因している」(『北海道の夜明け』から)
いままで米がとれないとされていた、この地方での産米に感激した函館奉行は、清太郎に賞金を与え、また、彼の数々の功績にのちの開拓判官・島義勇は「早山は……わが北海の主人なり」といった。
早山清太郎が91歳の長い生涯を終えた以後も、早山家代々は今日まで一貫して農業の道を歩む。二代目茂一郎(死去)から三代目勘之進(死去)へ。
そして、四代目茂さんは、今年57歳。「農業に見切りをつけることはなかなかできませんよ。体がきくまではと思っているんです」
早山家の農地の近くにも、団地や住宅が建ち始めて久しい。息子さんには将来のことを考えてサラリーマンを勧め、農業は自分の代で―と決断した茂さん。
日焼けしきったその顔は、冷害、貧困あるいは栄誉でつづられた開拓農民早山家の120年にわたる記録が深く刻み込まれているかのようだ。
そしてこの夏、茂さんは初めての「内孫」が生まれる。極めて珍しい「札幌っ子六代目」の誕生である。

(「広報さっぽろ北区版昭和50年3月号」掲載)

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