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更新日:2011年2月1日

6. 殿様の余剰武士対策-前田農場

エピソード・北区

第1章:太古から開拓へ

1.遺跡から先史を辿る2.奈良時代の北区を探る3.篠路に石狩初の農村づくり4.幕末、篠路に入地5.親族の反対をおしきった開墾魂6.殿様の余剰武士対策7.北辺の理想郷目指し8.南部盛岡藩士が入植9.語源はアイヌ語?10.地名に刻まれた歴史

6.殿様の余剰武士対策 -自然に恵まれ、いい草が生えた-

前田農場

 

殿様の余剰武士対策1

前田農場。木々の間に、建物が見える

殿様の余剰武士対策2

金賞受賞のマエダコマンダー号


国道231号、石狩街道を北上すると茨戸に「耕北農場前」というバス停がある。この付近、創成川左岸から花畔(ばんなぐろ)にかけて、333町歩(330ヘクタール)もの大農場があった。旧加賀百万石の藩主前田利嗣侯が明治27(1894)年、失業した武士のため開いた前田農場である。

自然の楽園─茨戸

そのころの茨戸は自然の楽園。小学校の郷土読本にはこう書かれている。「茨戸はいくつもいくつもの枝川がゆるく流れて石狩川の本流に合する所で、自然のながめが変化に富んでいた。川っぷちには昔ながらの大木が茂って、それにぶどうやコクワがからまってふさふさとした実を下げていた。」
「そう、農場の奥に行くとね、鳥がすごかった。カッコウはもちろん、カワセミ、オシドリなどが一日中さえずっていた。木の上にはリスが走り回って……」茨戸で生まれ育った佐藤房吉さん(80)。「土地も良かった。いい草が生えて。それで牛でも馬でも一夏で丸々と太ったものだ。」

牧畜のパイオニア

「前田」農場といっても殿様は農場を持っているだけ。実際の経営は月給制で雇われた事務長などが行う近代的管理農場であった。また前田農場は本市の牧畜史上も特筆すべき存在である。企業ベースとして本格的に乳牛を飼い、牛乳を売り始めたのが前田農場であった。搾った牛乳は朝夕、鉄道で小樽に送りそこで製品化した。前田農場産の牛乳は濃いことで知られていたという。
牛の繁殖も大きな仕事であった。種牛を札幌農学校(現・北大)から譲り受けたり外国から輸入して品種改良に努め、良い牛を全国に販売していた。北海道物産共進会や東京博覧会で金賞を受賞したマエダコマンダー号はじめ優秀な種牛が育っていた。

水に追われて

自然に恵まれ、事業も順調にいくと思われた前田農場。しかし、実は大変な問題があった。水害である。「もう年中行事、本当に。ひどいときは雪解けの春先にやられ、作物の盛りにまた夏水がついて」と佐藤さん。しかも土地が低いだけに一度水がつくとなかなか引かない。明治31(1898)年の大水害のとき、29歳の母親と2つの子供が板に乗って、飲まず食わずで1週間も漂流するという事件があったほど。幸い、この母子は無事に救出されたという。
毎年のように襲ってくる水害。収穫が皆無の状況が続き明治39(1906)年、ついに本場は西区の軽川に移動。茨戸は支場となった。このため西区には今も前田の地名が残っている。茨戸の支場は昭和になって人手に渡り、名前も耕北農場に変わった。
信長、秀吉に仕え、数々の武功で名を挙げた「槍の又左」前田利家。その子孫ははるか北の地で「アメリカ式農法」に大きな足跡を残している。

(「広報さっぽろ北区版昭和61年3月号」掲載)

※現在は、バス停「耕北農場前」は「茨戸耕北橋」に変わっているが、今なお、その名を後世に残している。
※西区前田は現在、手稲区前田。

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