ホーム > 北区の紹介 > 歴史と文化 > エピソード・北区 > 第1章:太古から開拓へ > 1.遺跡から先史を辿(たど)る-埋蔵文化財
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1.遺跡から先史を辿る|2.奈良時代の北区を探る|3.篠路に石狩初の農村づくり|4.幕末、篠路に入地|5.親族の反対をおしきった開墾魂|6.殿様の余剰武士対策|7.北辺の理想郷目指し|8.南部盛岡藩士が入植|9.語源はアイヌ語?|10.地名に刻まれた歴史
約百年前までは、獲物の豊富な最良の狩場だった。
昭和52(1977)年4月、北25西13付近で約1千年前の"擦文(さつもん)式土器"が発掘された。
札幌市の場合、現在451カ所の埋蔵文化財包蔵地が確認されている。最も古い時期の7千年前の縄文式土器(白石神社遺跡)から、新しいものでは約百年前のものまでが発見されている。発掘された市内埋蔵文化財は20数万点にも及ぶという。
さて、大昔の北区では、どのような生活が営まれていたのだろうか。
北区北25西13の北高付近で出土、復元した擦文式土器(市埋蔵文化財調査室蔵)
北大ポプラ並木付近で出土した土器片。擦文式土器の特長である刻線が明らかである(北大博物館蔵) |
区内の埋蔵文化財包蔵地を地図上に落としてみると、北7西6の清華亭付近、北大構内の恵迪寮北側一帯から麻生町にかけて遺跡が続いている。このことを明治30(1897)年発刊の『北大遺跡について』(北大調査団)は「豊平より分岐し、札幌の中央を南より西北へ流れる川がかなりの水量をもってここを貫流していたのである。従ってここには、以前サケ、マスなどの魚族が多く生息していたことが推察される」また「本遺跡は一時的生活の目的、すなわち川にさかのぼってくる産卵期の魚族を捕るためにつくった仮小屋であったように思われる」と記されている。
遺跡の形態は、直径6、7メートル前後の円形に近いくぼ地で、かつて竪穴式住居だったことが推測されている。昭和初年までは、草地のなかに住居跡のくぼ地が点々と散在し、相当な数の竪穴群があったことを証明していたが、いまでは表面よりこれらを見ることはできない。
区内の遺跡のほとんどは、擦文時代のもので、堆積した火山灰などからおよそ400~500年前に形成されたものである。擦文土器は、ハケやヘラで土器の表面を整形した刻線が特徴。出土は北海道だけである。
安政4年(1857)に箱館奉行に随行した仙台藩士・玉虫左太夫の『入北記』は、今の北大構内の南の小川のふちにアイヌの人々が居住し、川に漁(すなど)り、原野に狩をしていたと記録している。現在人口18万人を超す北区も約百年前までは獲物の豊富な最良の漁猟場であった。
『新琴似80年史』によると開村以前の明治18(1885)年まで、イカシトフというアイヌの酋(しゅう)長が、現・新琴似屯田兵中隊本部西側に住んでいたと記されている。兵村開設にあたり石狩沢16線に移り住んだというだけで、その後は定かではない。
また、茨戸アイヌの最後のひとり故能登酉雄さんは、部族移動の伝説をこう伝えている。「昔大洪水(ポロワッカ)があった。アイヌは、札幌の山(インカルシペ)めがけて丸木舟をこいだ。そしてようよう乾いて広い土地についた。それからそこをサッポロと呼ぶようになった」と。
遺跡の言い伝えから、人間生活の古い歴史が辿られていく。これはわたしたちの貴重な財産なのである。
(「広報さっぽろ北区版昭和52年10月号」掲載)
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