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更新日:2023年1月10日

2.奈良時代の北区を探る-麻生遺跡

エピソード・北区

第1章:太古から開拓へ

1.遺跡から先史を辿る2.奈良時代の北区を探る3.篠路に石狩初の農村づくり4.幕末、篠路に入地5.親族の反対をおしきった開墾魂6.殿様の余剰武士対策7.北辺の理想郷目指し8.南部盛岡藩士が入植9.語源はアイヌ語?10.地名に刻まれた歴史

2.奈良時代の北区を探る-初めて出土した須恵器(すえき)-

麻生遺跡

昭和49(1974)年に発見され、関係者の注目を集めていた1枚の古地図が、今、新たな評価を得た。
これは、明治27(1894)年ころ、札幌の先住民の竪穴式住居跡を一つ一つ丹念に記録したもの。
作成者は、島崎藤村が「努力家」と評した郷土史家の高畑宣一氏である。昭和53(1978)年夏、この地図を頼りに、区内の麻生球場予定地で発掘調査が行われ、約1,200~1,300年前(奈良時代)の擦文土器、そして市内で初めての須恵器が出土した。
これは、考古学上貴重な発見であると同時に、この地図の正確さを立証したものといえよう。

 

麻生球場予定地での発掘調査

当時の生活

この地図の記すところによると、北大植物園付近からわき出た小河川と、旧琴似川に沿って、北大―北高―新川―麻生にかけ、かつて800もの住居があった。この川は今ではすっかり街並みに埋もれてしまった。わずかに北大構内で往事をしのぶことができる。
この地で、人々はサケ、マスなどの魚や木の実を採り、獣を追い、アワやシソ、大麦などを栽培していた。
当時、食物の煮炊きや貯蔵のために使われていたのは、擦文土器である。
これは、北海道特有の土器で赤褐色をしている。粘土を手で成形し、線を刻んで模様を付け、穴の中で素焼きしたものであった。

 

手にしているのが須恵器、机の上にあるのが擦文土器

須恵器の出現

ある日見たこともないような美しい土器が本州から流入してきた。それが須恵器である。
須恵器は今から約1,400年前、朝鮮から伝わった焼き物。急速に日本全土に普及した。須恵器がわが国に定着したのは、陶芸史上「最初で最大の事柄」と評価されている。その技術は、今も瀬戸、信楽(しがらき)、備前焼などに受け継がれている。
須恵器はろくろを使い、山の斜面を利用して作った窯で高温度で焼きあげる。
形は洗練されて均整がとれ、肉は薄い。焼きのあまい赤褐色の擦文土器に比べ、肌は堅く焼き締まり、落ち着いた美しい色彩をしている。
それだけに、初めてこの"舶来品"を手にしたとき、当時の人は、その美しさ、技術の高さに驚いたに違いない。
発掘にあたった札幌市埋蔵文化財調査室の上野秀一さんは「須恵器は本州でしか作られていなかったんです。本州との交流を示す貴重な資料ですよ」と語る。

毛皮と交換

本州からは須恵器のほか、鉄製農機具なども流入していた。これらの代価になったのは毛皮である。
熊の毛皮が特に珍重され、奈良の都に毛皮が届くと、貴族は競って買い求め、良質の毛皮を得るために、密貿易すら行われていたとの記録が残っている。
1,200~1,300年前の奈良時代、北区には確かに人が生活していた。
私たちは、わずかに残された遺物から当時を知ることができる。

(「広報さっぽろ北区版昭和53年10月号」掲載)

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