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44.本道産業史の一ページを飾る|45.荒地を開き藍を栽培|46.思い出の米作り五十年|47.肌のよさと柔らかさが身上|48.亜麻の名残は町名に|49.噴き出した太古の恵み|50.札幌でたった八人の漁師
今では、石狩川の魚影も薄い…
「ヨーラソオー」。
勇ましい掛け声が石狩川の水面に響く篠路町拓北。ここは札幌における唯一の漁場である。しかし、漁師はたった八人しかいない。
遠く新潟から漁民の一団が移住した明治末期。未開の石狩川流域に故郷の信濃川方式のヤツメ漁を採用、幾多の労苦と改良を重ねての"大漁"は終戦後数年まで続いた。
今、石狩川の特産物として知られるヤツメウナギ、最盛期は9月から5月にかけてである。ふつう1日に2~300匹もの水揚げがある。舟底がヤツメで埋まる様は壮観だ。
ヤツメ漁には、独特の漁法がある。「●(ど)」を使う。素材であるカヤを円錐状に編み、口部の返しによって、1度入った魚は出ることができない。いわば"水中ネズミ捕り"のようなもの。
●づくりは、ヤツメの閑漁期である夏場、各家で行われる。カヤは新潟・山形のを取り寄せて使う。1日がかりで1個をつくるという。
現在、篠路のヤツメは、ほとんどが乾燥加工し体力増進や夜盲症の薬となり主に本州へ出荷する。残りは、ヤツメの蒲焼として賞味されている。
しかし、サケ・マスが群れをなしていた石狩川も魚影は薄くなった。ヤツメも同様である。
「昭和20(1945)年ごろは、漁業で生計を立てる家が30軒はありましたがねえ。近ごろでは、石狩川の汚れがひどく、水揚げも年々減るばっかしで、いつまで漁師を続けていられるのやら」と3代目ヤツメ漁師松浦幸雄さん(50)は寂しく語る。
(●は竹冠に奴)
(「広報さっぽろ北区版昭和50年7月号」掲載)
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