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更新日:2023年1月4日

45.荒地を開き藍を栽培-篠路興産社

エピソード・北区

第6章:産業

44.本道産業史の一ページを飾る45.荒地を開き藍を栽培46.思い出の米作り五十年47.肌のよさと柔らかさが身上48.亜麻の名残は町名に49.噴き出した太古の恵み50.札幌でたった八人の漁師

45.荒地を開き藍を栽培

篠路興産社

 

明治40(1907)年ころの藍の移植作業

「目的地は篠路であった。僕らは郷里の仲間と協力して、篠路一帯にアメリカ流の大きな農場をつくろうと思っている」「北海道は違う。切り開けば、土地はほとんど無限だ。この新天地は大農経営のためにあるようなものですよ」─船山馨は小説『石狩平野』の中で滝本五郎にこう言わせ、篠路興産社を登場させている。
滝本は、徳島県の板野郡長江新田村の御蔵(おくら)百姓として生まれ、明治15(1882)年5月、47歳で篠路に入地。はるばる南国徳島からやってきた滝本らを出迎えたのは床上2尺(60センチ)の雪解け水。前途多難を思わせる第1夜であったが土地の高低がよくわかり、さらに土盛をして建物を高い所に建てたという。
開墾は困難を極めた。大金を投じて持ち込んだ西洋農具が役に立たない。木々や笹の根が密生していたからである。作業は手起こしが主であった。

 

篠路の開拓に尽力した滝本五郎。藍栽培では見事な成果を収めた。(道行政資料室提供)

藍染めの原料、すくも。昔はこれをつき固め藍玉にした。

藍の栽培に成功した滝本は、徳島の弟へ電報を打った。「アイデキタ」

明治16(1883)年、払い下げを受けた924ヘクタールの荒地に滝本はいろいろな作物を作っている。大豆、小豆、大根、ソバ、トウモロコシ、そして藍を植えた。大規模農業を目指していた滝本が試作とはいえ手間のかかる藍を選んだのはその商品性にあった。葉を出荷するだけで、1町歩(1ヘクタール)当たりの収入が70円以上にもなったという。30円もあれば一年暮らせたころである。

バッタの襲来

この年は大変な干ばつで5月からずっと雨がなかった。これに予想外の災害が加わった。バッタである。「8月10日ころ北東よりバッタ飛び来たり、農場及び茅野、笹原一帯群集し、粟、キビ、トウモロコシなどを食うことはなはだし」滝本は弟に書き送っている。夜を徹してブリキ板等をたたいても効力はない。焼き尽くすこともできない。そのうちに一斉に産卵を始めた。放っておいたら翌年ふ化して大災害をもたらす。農場中堀り起こして卵を処分する作業で大騒ぎになったという。この土を積み上げたのが「バッタ塚」である。あいの里にはこの時のバッタ塚が残されているとの言い伝えがあり、昭和50年代に区役所で一帯を調査した。残念ながら史跡は見つからなかった。

藍ができた

作業員の引き抜き騒動もあった。当時はニシンの大漁が続いていた。「朝から晩まで開墾に汗水流すよりずっと楽で金にもなる」言葉巧みにスカウトされ、ニシン場へ転職する者が続出。作業に大きな障害が出たという。
干ばつ、バッタ、人手不足。度重なる障害にも藍は耐えた。徳島の弟へ電報が打たれた。「アイデキタ。」
刈り取った葉を乾燥させる。ふつうの植物は乾くと白っぽくなるが藍は黒くなる。この葉を徳島へ送り、藍染めの原料すくもに加工した。品質は上々だった。これに力を得て大々的に栽培しようとしたところ新たな問題が持ち上がってきた。徳島県の藍取り締まり規則である。

徳島との経済摩擦

刈り取った藍の葉を乾燥させ水を掛けると自然に発酵を始める。やがて手で触れないほど熱くなる。温度は約60度。この温度を保ちながら3カ月ほど寝かせる。こうして出来るのがすくも。美しい青色の原料は一見、土のかたまりのようなものである。「3カ月間外出はできないし、夜中にも起きて見回る。ほんのちょっと気を抜くと全部だめになる。赤ん坊を育ててるよりずっと難しい」道内でただ一人すくもを作っている篠原茂さん(64伊達市)。篠路で藍の試作に成功した滝本五郎もこの大変な技術と労力がいる難しい作業を地元でやるつもりはなかった。藍の本場徳島へ葉のまま売ろうとした。しかし藍は蜂須賀藩以来徳島の専売品で他県からの買い入れを禁止していた。この売り買いは北海道庁と徳島県との経済摩擦にまで発展。結局、滝本は地元で葉をすくもに加工しなければならなくなった。

孫から借金

南国徳島では自然発酵させているが寒い本道ではどうだろう。10月から12月までどんどん寒くなるときに60度の温度を保てるのだろうか?明治18(1885)年、徳島から技術者を雇い入れ試験的に加工してみた。結果は上々だった。こうして篠路でも藍の耕作だけでなく、すくもへの加工もできることがわかった。
明治19(1886)年、本格的な製造所を建てた。このころが経済的に1番苦しい時期であった。滝本は小樽に出かける汽車賃すらなく、孫の小遣いから借金しなければならなかったという。

殿様も株主に

 

篠路一帯で藍が栽培されていた。
濃い部分が明治中ごろ滝本の経営していた農場

この苦境を救ったのは道庁からの補助金2,000円であった。今のお金で約2,000万円。道は藍の将来性に大きな期待を寄せていたのだ。事態は好転した。翌年はさらに製造所2棟を新築。藍の作付けも篠路から丘珠、札幌、白石村、そして余市、仁木へと急速に広がっていった。これは反当たりの収入が多かったばかりでなく一種の問屋制度を取り入れ、農家が転作しやすいようにしたからである。春先に種子や肥料、機械まで貸し付け、買い入れ代金で清算するものであった。できた製品も代金翌年払いの慣例を破り現金取引とした。
また、滝本は自らすくも製造方法の改良研究を進めた。「すこぶる才気のある人」で、今で言う近代的経営感覚の持ち主であった。事実、滝本は篠路の開墾、藍の栽培などを、会社組織で行っていた。この篠路興産社株式会社は事業の好転に伴い、増資に次ぐ増資。滝本の郷里、徳島の殿様だった蜂須賀候も農場を訪問して滝本を激励したり自ら株主ともなった。そして明治23(1890)年には内国勧業博覧会で興産社の藍玉が一等有功賞となり、その品質に折り紙がつけられた。

残るは町内会名、碑、祭り

 

篠路の野に立つ「北海道百年記念碑」(手前)と「頌徳碑」(後方)。藍の歴史を伝える記念碑。あいの里団地の入口にある。

「五郎は身なりには全く無頓着で、わらじばきのまま長官室に出入りし、ことに北海道開拓論では、よく岩村長官を相手に議論を戦わせたという。札幌の自宅で64歳の生涯を終えたのは明治32(1899)年10月9日であった」(『開拓の群像』(上)から)滝本死後は、化学染料の進出に押され、興産社は衰退の一途をたどり、藍栽培は跡を絶った。
現在、興産社の名は、地元の「興産社町内会」として残るほか、篠路町拓北415の野に興産社有志の建てた滝本五郎の「頌徳碑」が「北海道百年記念碑」(昭和43(1968)年8月建立)の新しい碑とともに立っている。
「頌徳碑」は長い間、風雪にさらされて碑文も定かではない。しかし、いまも先人の志を継ぐ祭典は行われている。篠路町拓北に住む久米一男さん(72)は「今も秋の収穫祭には滝本五郎の遺族を呼んで、碑の下で祭典が行われていますよ」と語ってくれた。

(「広報さっぽろ北区版昭和52年6月号・60年4月号・60年6月号」掲載)

よみがえる藍

 

昭和59(1984)年、北区民センターで初めて開催された藍染め講習会

篠路地区から藍の姿が消えてしまってから長い歳月が流れた昭和59(1984)年、区内で藍染めがよみがえった。北区民センターで藍染め講習会が開催されたのである。市内はもとより道内でも初めてという藍染め講習会には、60人もの受講生が集まるほど注目を集めたものだった。そして、翌年10月、かつて大々的に藍の栽培が行われていた篠路地区が藍染め復活の本格的拠点となる。藍染室が設置された篠路コミュニティセンターがオープンしたのである。
篠路地区ゆかりの藍染めを現代にはぐくもうと積極的に活動していたのは篠路・太平藍染会の皆さん。同センターのオープンに合わせて、その年の夏から藍を栽培していたそう。その当時、同会会長の堀尾静子(ほりおしずこ)さんは「藍は愛に通じます。篠路といったら"あい"、"あい"といったら篠路といえるよう、みんなで藍を通して郷土愛を育てていきたい」と話していた。

篠路天然藍染振興会の発足・後世まで受け継がれる藍染め文化

地域住民の協力を得ながら、北区民センターと篠路コミュニティセンターでは、その後毎年、藍染め講習会が続けられ、それら講習会の受講生からなるサークルも次々と出来上がり、平成6(1994)年の時点では8組のサークルが結成されていた。しかし、それらの活動は、ある程度は連携を取りながらも、それぞれが独自に活動することが多かった。
そのような中、藍染め文化をより一層飛躍させていくためには、これまでのような活動形式では難しいという意見があちらこちらで聞かれるようになった。そこで、サークル活動に熱心だった石毛巍(いしげたかし)さんが中心となり、その年の8月に設立準備会を開催したところ、全サークルの意見が一致。たった一度きりの会議で、すべてのサークルが集結し、100人余りの会員を擁する篠路天然藍染振興会が結成されたのである。同会では結成直後から、天然藍染め作品の展示会や地域の祭りや文化祭などでの体験藍染めなどの活動が行われ、藍染めの普及と発展の大きな原動力となった。
今年結成10年目を迎える同会では、多くの区民に藍染め文化が広がるよう、今後も積極的な活動を続けていく。「地域に根付く伝統文化であるこの藍染めを、後世にも脈々と伝えていきたい。いや、伝えていかなければならないんだ」と会長の石毛さんは、いつも話している。

(「新・北区エピソード史(平成15年3月発行)」掲載)

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