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更新日:2023年1月5日

47.肌のよさと柔らかさが身上-新琴似大根

エピソード・北区

第6章:産業

44.本道産業史の一ページを飾る45.荒地を開き藍を栽培46.思い出の米作り五十年47.肌のよさと柔らかさが身上48.亜麻の名残は町名に49.噴き出した太古の恵み50.札幌でたった八人の漁師

47.肌のよさと柔らかさが身上

新琴似大根

秋の風物詩たくわん漬けと大根スダレ

昭和11(1936)年夏、北大第2農場前で。荷の大根は1把10本である(新頃に屯田兵中隊本部「開拓資料室」提供)

昭和30(1955)年ころの秋大根の種まき風景。馬によるうね起こし作業も見られる(新琴似屯田兵中隊本部「開拓資料室」提供)

「ヒャーッ、ひでえ道だ」
1把10本の大根を山と積んだ馬車が、泥沼のような石狩街道を進んで行く。朝4時半出発、悪路との苦闘の末、目的地の二条市場へは3時間もかかったという。
それでも、年間の生産本数800万本、当時の金額にして1本8厘、総額10数万円の利益を上げた。
大正から昭和初期にかけて、新琴似大根は黄金時代を迎え、その名は全道に知れわたった。

屯田兵が生みの親

新琴似の開拓は、明治20、21(1887,1888)年の屯田兵入植に始まる。
『新琴似70年史』は「鋸、鎌で、先ず熊笹や樹木等、家屋の周辺から開き向い家との通路を漸次開拓その面積を広げて行った。鍬の使用法も知らなかった者も有ったと言う事であるから砥石、鑢(やすり)は火打ちの道具かと思い違った程だったと言われる」と新琴似農業の夜明けをつづっている。明治23(1890)年、屯田兵中隊長の安東貞一郎大尉は、自給を目的として大根の種子2合を兵村各戸に配付。これが、新琴似大根の産声となった。当時、隣の篠路兵村(現・屯田町)の方が、すでに大根の産地として知られており、札幌から下肥を運んで作った大根を札幌で販売していた。しかし、明治31(1898)年の4月、7月、8月と連続して篠路を襲った大洪水は農作物をすっかり流し去った。このためにわずかな新琴似大根は高値を呼び、新琴似の人たちが大根作りに本腰を入れる契機となった。
打撃を受けた篠路兵村では稲作に転向。新川、創成川を水源とした水利権を新琴似から譲渡された。

「たくあん亡国論」に反発

大根作りは新琴似が主産地となった。さっそく新琴似では視察隊を組織し、道南の七飯、白老、上川の鷹栖など道内の大根産地をくまなく見て回った。帰郷後、まず、相場協定が作られた。これに、違反する者は村八分という厳しいものだったようである。
新琴似在住で屯田兵2世でもある菅進さん(76)は「私が子供のときから大根は盛んでしてね。札幌合併まで続いていました。新琴似大根の魅力は何と言っても肌のよさと柔らかいことですよ」と語る。
札幌市民の食卓がみがきニシン、みそ汁、たくあんだった大正11(1922)年、北大教授の森本厚吉は『たくあん亡国論』を発表。「日本人はお茶づけに漬物ばかり食べているから体位が貧弱だ」と食生活改善を訴えた。だが大根作りに精魂込めていた新琴似の人たちにとっては面白くない発言であった。一言文句をと、森本宅へ駆け付けた青年が、相手の品格に押され、とうとう何も言えずに帰って来たことがあったという。
新琴似で漬物屋を始めたのは村田勇さんである。その工場は、新琴似歌舞伎の常設劇場「若松館」を解体、移設したもので、直径2メートルの漬物樽が並んでいたという。同工場は月寒25連隊の専用工場としても利用されていたという。現在、漬物工場は3軒を残すのみである。
作付が札幌市需要量の8割を占めていた新琴似大根も、連作によって地力が消耗し、加えて害虫の大量発生が相次ぎ良質の大根が取れなくなった。それにも増して市街化の波が新琴似に押し寄せ、畑は宅地へと転換していった。ある老人は「秋の大根馬車や"大根スダレ"がまったく見られなくなってしまいましたねえ」と寂しげに語っていた。

(「広報さっぽろ北区版昭和52年7月号」掲載)

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