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ホーム > 北区の紹介 > 歴史と文化 > エピソード・北区 > 第6章:産業 > 44.本道産業史の一ページを飾る-篠路みそ・しょうゆ工場

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更新日:2023年1月10日

44.本道産業史の一ページを飾る-篠路みそ・しょうゆ工場

エピソード・北区

第6章:産業

44.本道産業史の一ページを飾る45.荒地を開き藍を栽培46.思い出の米作り五十年47.肌のよさと柔らかさが身上48.亜麻の名残は町名に49.噴き出した太古の恵み50.札幌でたった八人の漁師

44.本道産業史の一ページを飾る-遠く本州までその名が伝わっていた-

篠路みそ・しょうゆ工場-創業は官営工場から

 

明治5(1872)年の醸造所(北大図書館蔵)

明治4(1871)年、札幌に開拓使が置かれた年。篠路村に本道初のみそ・しょうゆ醸造所が造られた。これは北海道における官営工場のはしりである。
そこから約30年の間、いろいろな変遷をたどりながら営業が続いたことを知る人は今は少ない。
開拓の初期、生活物資の大半は本州から運ばれていた。開拓使にとって道内で自給体制を確立させるのが急務であった。しかし、本州でさえ近代産業は未成熟の時代。北海道へ移民を進め、新しい産業を起こすには開拓使自ら事業を進めるほかなかったのである。こうして、生活に何よりも必要なみそ、しょうゆの官営工場が生まれたのである。
篠路が選ばれたのは、石狩、札幌への交通の要地であり、原料になる大豆、米、麦などが容易に手に入ったからである。当時は石狩湾から石狩川(現在の茨戸川)をさかのぼり、茨戸を経て、伏籠川から札幌へというのが物資運搬のルートであった。
郷土史家の田崎勇さん(70)は「しょうゆには"松""竹""梅"のラベルが張られ、"菊""福寿"などの特製品も作られていたようです。最盛期には、篠路から札幌への運送に丸木舟70隻、馬2千頭が使われ、運送業を始める人も出るほどでした。それはにぎやかなものだったそうです」と語る。
官営によるこの篠路工場も、明治11(1878)年9月、宮城県の士族沢口永将に払い下げられ、初めて民間による醸造が行われた。しかし、経営は振るわず、借金を増すだけで、挙げ句の果てには、夜逃げ同様に引き揚げたようである。

囚人の手で醸造

明治15(1882)年、樺戸集治監(現・月形町。今でいえば刑務所に当たる)がこの篠路工場を買い受け、篠路分監(仮監房)とした。囚人はみそ・しょうゆの製造技術を身に付けた。『樺戸監獄史話』によると「前田繁義看守長を管理者、地元の田辺丑松を授業手(作業指導者)として雇い、ほかはすべて囚人により運営した。ここで出来た製品は、淀川船で枯木(現・雁来町)方面に運んだ」とある。生産経費の削減と労働力不足を補うためである。
再び、民営による製造が開始されたのは明治20(1887)年、新潟県出身の笠原文平の手による。質が良いと大変評判を呼び、"篠路みそ・しょうゆ"の名は一段と道内に広まった。明治22(1889)年の生産高を見るとみそ792石6斗、しょうゆ884石を製造、2,998円38銭の純益を上げている。笠原商会は、増産を続け、販路を札幌近郊から空知地方へと拡大した。そして札幌と茨戸を結ぶ石狩街道が整備された明治30(1897)年ころ、醸造所は交通の便の良くなった札幌市街に移転。30年にわたる"篠路みそ・しょうゆ"は、発展的終わりを告げたのである。
篠路町拓北に住む山本一郎さん(78)は「私の父は"笠原しょうゆ"と呼び、遠く本州までその名が伝わっていたと言っていました」と懐かしげに語る。
今、醸造所跡にその面影をとどめるものは何もない。当時からあったニレの老木だけが現在に何か伝えているようだ。官営によって始められた、"篠路みそ・しょうゆ"の醸造が、民間にゆだねられ樺戸囚人の手に移り、そして再び民間企業として発展を見た変遷史。
歴史の上では小さな時の流れであるが、北区篠路の地に確かに北海道産業史の1ページを見ることができる。

(「広報さっぽろ北区版昭和53年4月号」掲載)

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