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ホーム > 北区の紹介 > 歴史と文化 > エピソード・北区 > 第2章:屯田兵 > 13.いろりの座り方は決まっていた-新琴似屯田兵屋

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更新日:2023年1月10日

13.いろりの座り方は決まっていた-新琴似屯田兵屋

エピソード・北区

第2章:屯田兵

11.反乱事件も遠く12.風雪に耐え九十年13.いろりの座り方は決まっていた14.貴重な遺産を発掘15.生命を支えた竹16.明治の遺構、開拓の心を今に17.荒野にともる開拓の灯18.娯楽の花形、草競馬19.祭りの起こりは西郷どん

13.いろりの座り方は決まっていた-木造平屋建て二百二十戸-

新琴似屯田兵屋

 

新琴似屯田兵屋間取り図面

屯田兵屋内部の様子

新琴似に屯田兵が入植したのは明治20(1887)年(古兵)と21(1888)年(新兵)。この開拓者たちが寝食をとったのは木造平屋1戸建て、17.5坪の家であった。この兵屋は間取りからみて、東北、北陸地方の農家がモデルのようである。

冬本位に改造

「いろいろ調べているんですがわからないことが多くて」屯田兵屋の復旧保存に努めている山西三信さん(74)。炉の大きさ、流しは土間か板間か、便所は内か外かなど不明な点が多い。これは残っている兵屋が少ないこと、残っていてもほとんどの兵屋が改造を重ね原型をとどめていないからであろう。
郷土史やいろいろな方のお話を考え合わせると、新琴似の兵屋は図のようなものだったと思われる。棟木やはりには地元に自生していたヤチダモが使われている。屯田兵屋は後になるほど造りが悪くなると言われているが、新琴似にも当てはまる。古兵宅のはりは製材した角材が使われているが新兵宅では原木のままなど粗雑化傾向が見られるという。
この家屋、当時としては立派なものだった。そのころは掘っ立て小屋で暮らす人も多く、畳の部屋まである兵屋は羨(せん)望の的。しかし、外観と中味が違うのはよくあることで、冬になるとそれがわかった。土間と板間とを合わせた広い空間はいろり一つでは暖がとれない。煙出しからは雪や風が吹き込んだ。実際は、兵屋よりも掘っ立て小屋の方がずっと暖かかったという。こうして兵屋は冬本位の建物へと急速に改造され、煙出しは真っ先に姿を消した。

生活の中心、いろり

鹿児島県出身の屯田兵の子孫、河本婦美さん(75。旧姓黒田)の話で当時の生活をしのんでみよう。
生活の中心は大きないろり。一切の煮炊きをこの炉でする家も多かったが黒田さんでクド(かまど)を使っていた。ニワ(土間)に2つのクドと流しがあり、台所仕事はここで。食事にはそれぞれ専用の茶わんや皿が納めてある箱膳(ぜん)を使った。
いろりには座り方がある。土間から一番遠いところをヨコザと言い一家の主人が座る場所。ふだん座布団を敷くのもここだけである。もし他人が座ると「あんた、米を買うのかい」とからかわれた。そこに座る者は米を買って一家の生活を支える責任があったからである。「夕食後はよく針仕事をさせられました。編み物も。母はよく昔話をしてくれました。時には百人一首の解説も」。
いろりはまた神聖な場所でもあった。「大みそかにはいろりの縁に塩を盛り、おもち、柿、みかんを供えました」。クド、流し、井戸などにも同じように塩を盛ったという。このような風習は鹿児島出身の他の家でも同じであったろう。しかし、出身地が違えばお隣同士でも全く違った風習、伝統があった。その場合もいろりは、やはり生活の中心だった。
(「広報さっぽろ北区版昭和61年1月号」掲載)

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