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11.反乱事件も遠く|12.風雪に耐え九十年|13.いろりの座り方は決まっていた|14.貴重な遺産を発掘|15.生命を支えた竹|16.明治の遺構、開拓の心を今に|17.荒野にともる開拓の灯|18.娯楽の花形、草競馬|19.祭りの起こりは西郷どん
「○○さんの家の物置小屋には新兵さんが住んでいたんだ」「いやあ、××さんの倉庫には分隊長が…」。
このように「屯田兵屋は、今も立派に現存しています」と証言するのは、新琴似に古くから住むお年寄りたち。話を頼りに追跡調査をしたところ、7戸の新琴似屯田兵屋が90年近い風雪を耐え抜いて、同地区に現存しているのがわかった(北区役所調べ)。
兵屋とは屯田兵の住宅のことでここに屯田兵が入植したのは明治20(1887)年(古兵)と21(1888)年(新兵)。平屋建て17.5坪の兵屋は、明治20(1887)年の入植の前の年に建てられたものであった。
このほど見つかった兵屋は全部で7戸。農家の物置に使われているもの6戸。今でも住宅として使っているもの1戸である。
7戸とも、外観、天井裏の構造、太いはり、柱、間取りなどの特徴から見て、屯田兵屋であることを物語っている。崩れた土壁、戸袋の跡、障子など入植当時そのままというのもあった。
なかでも、昭和50(1975)年5月11日死去した新琴似三番通り沿いの前村嘉四郎さん(77)は、札幌でただ一軒、今でも屯田兵屋に住んでいるという珍しい存在だった。増築で外観こそ変わったが、れっきとした兵屋なのである。
「この家は大谷さんという新兵さんから譲ってもらい、場所を移して建てたものです。三番通りの"角の古い家"と一言いえば、出前だってすぐ届きますよ」生前、前村さんは誇らしげに語っていた。
屯田兵2世で新琴似屯田兵中隊本部保存会長の管進さんは「発見された建物は外観から見ても間違いなく、かつての兵屋ですよ。懐かしい」と感慨深げだ。
山西宅物置の屋根裏。太いはりは現地調達のタモ材である
夫婦水入らずの前村夫婦。故嘉四郎さんは屯田兵屋に住んでいるのが自慢だった
村田宅物置の外観
◆故前村嘉四郎宅住家(新琴似五の四)
◆村田正喜宅物置(同五の四)
◆近藤光雄宅物置(同二の七)
◆山西三信宅物置(同一の六)
◆一原信之宅物置(同二の七)
◆吉川貞雄宅物置(同三の六)
◆馬場清太郎宅物置(同九の三)
(「広報さっぽろ北区版昭和50年6月号」掲載)
※平成27年6月時点、上記の屯田兵屋で現存するものはありません。
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