ホーム > 北区の紹介 > 歴史と文化 > エピソード・北区 > 第1章:太古から開拓へ > 10.地名に刻まれた歴史
ここから本文です。
1.遺跡から先史を辿る|2.奈良時代の北区を探る|3.篠路に石狩初の農村づくり|4.幕末、篠路に入地|5.親族の反対をおしきった開墾魂|6.殿様の余剰武士対策|7.北辺の理想郷目指し|8.南部盛岡藩士が入植|9.語源はアイヌ語?|10.地名に刻まれた歴史
「昔、赤ん坊(囚人)が掘ったから赤ん坊川っていうんです」と付近に住むお年寄りは言う=北区篠路町・赤坊橋で
先人の労苦や文化的事象などは、その時代時代には脚光を浴びながらも時の流れとともに、記憶の片隅に追いやられてしまったものが少なくない。しかしそれらは、完全に消えてしまったわけではない。あるものは地名に、あるものは川の名となって刻み込まれ、過ぎた日を現在に伝えている。いま、そのいくつかをたどってみよう。
「あざぶ」と読む人が意外に多いが、「あさぶ」が正式呼称である。かつて、この地域の大部分が帝国製麻琴似製線工場だったことから、住民の要望で亜麻工場の昔をしのぶ、「麻生町」の名がついた。
この語はアイヌ語から生じたもので、松前藩時代にすでにこの付近一帯を「上シノロ」「下シノロ」と称していた。語源はアイヌ語の「スウオロ」で、意味は「鍋をひたしておく所」と言われるが定かではない。琴似川や伏籠川を舟で上下していたアイヌの人たちは、炊事に使用した鍋を、今の龍雲寺付近にひたしておいたからだ、という。このスウオロが転じたのが「篠路」であるらしい。また、アイヌ語とは無関係という説もある。
この川は、明治二十一(1888)年ころ、苗穂刑務所の囚人たちが掘ったかんがい溝である。当時の囚人は赤い獄衣を着ていたので、人々に赤ん坊と呼ばれていた。このことから、「篠路赤坊川」の名が付いた。
明治の後期、この橋の工事を請け負った棟りょうの鼻が、この世の人とは思えないほどに高く、しかも六尺を超える大男で天狗のあだ名があった。以来「天狗橋」と呼ばれている。
その昔、「琴似」はアイヌ語で、「コッ・ネイ」と呼ばれ、「くぼんでいる所」の意味である。新琴似もこれに基づく。区域内の新しい兵村だったので「新」を冠した。琴似村大字琴似字新琴似である。
札幌を南北に流れ、一部は北区と東区の区界である。この川に創成川の名がついたのは明治7(1874)年のこと。岩村判官の命名。人の手でつくった川という意味であろうか。大友堀の上流部分が創成川の前身。
明治二十二(1889)年、篠路屯田兵が入植した地である。札幌広しといえども「屯田」が正式に地名に残るのは、ここ北区屯田のみである。
アイヌ語の「パラ・ト」が語源で「広い沼」という意味。茨戸は、発寒川、伏籠川、創成川が石狩川に合流する地域で、落ち口あたりが沼のように広がっていた。その昔ここには、アイヌの人たちが住んでいた。
新琴似を流れる安春川は、時の新琴似屯田兵・安東中隊長の計画で開削した重要な排水溝。この安東中隊長と請負人春山某の名をとって「安春川」になったという説と、安東が春に工事を始めたからという二説がある。
(「広報さっぽろ北区版昭和50年1月号」掲載)
このページについてのお問い合わせ
Copyright © City of Sapporo All rights Reserved.