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更新日:2023年1月10日

7.北辺の理想郷目指し-福移

エピソード・北区

第1章:太古から開拓へ

1.遺跡から先史を辿る2.奈良時代の北区を探る3.篠路に石狩初の農村づくり4.幕末、篠路に入地5.親族の反対をおしきった開墾魂6.殿様の余剰武士対策7.北辺の理想郷目指し8.南部盛岡藩士が入植9.語源はアイヌ語?10.地名に刻まれた歴史

7.北辺の理想郷目指し-福岡藩の士族が移住-

福移

 

昭和6(1931)年9月、開拓50周年記念碑が建立された。円内は福移開拓の中心者であった木野束

福移開拓の中心者であった木野束

昭和56(1981)年に建てられた開拓百年碑

北区の東端、篠路清掃工場がある付近を福移という。「フクイと言うとよく福井に間違えられますね。福岡県から移住してきたので福移なんですよ」と中山義夫さん(57)。
旧福岡藩の士族50戸75人が石狩川沿いのトウヘツフトと呼ばれていたところに入植したのは明治15(1882)年の春。刀をくわに持ち替えた黒田武士に次々と大きな試練が襲いかかった。

北の理想郷へ

武士団は北の地に全く新しいユートピアを建設しようとした。事業は共有、運営は多数決とし収入は皆平等とする。入植できるのは「品行方正、節操堅固にして身体健康な者」に限られた。移住団には千石以上の禄を食(は)んだ有力者がズラリと顔を並べた。比較的安定していた郷里での生活を捨ててまでも北辺の理想郷建設に懸けたのである。
移住団は明治政府から特別融資を受けた。今のお金で数億円。しかも無利子、5年間据え置きという好条件だった。これは政府が士族授産のテストケースとして重視していたからであろう。出発に際しては旧藩主黒田侯から激励を受け、3年分の食料を満載した平安丸は博多を出発した。

一夜で破産

移住者は皆、入植後数年間の苦労は覚悟していた。しかし、計画は入植前夜に打ち砕かれた。巨額の資金が跡形もなく消えてしまったのである。調べてみると会計係が小樽で海産物の商品取引に手を出していたことがわかった。結果は失敗だった。
一銭もなくなっては理想郷どころではない。郷里から持参した伝家の宝刀や晴れ着を売り払い、国もとから借金を重ねたが生活は窮乏した。「満村飢餓(きが)に瀕し」冬になっても着るものもなく「憐(あわれみ)を路ぼうにこふ者ある」状況に陥った。

最後の黒田武士

入植資金の横領。時の政府にも「寝耳に水」の大事件であった。「もし所期の目的を果さざるにおいては武士の面目にかかり天下に恥をさらすことになる」篠路に駆けつけた同郷出身の太政官金子堅太郎、西郷従道、品川彌二郎等そうそうたるメンバーも相次いで訪れ事態収拾に尽力するとともに開拓者たちの武士道に訴えた。
この激励に応えたのが木野束(つがね)である。自家の開墾は人任せにし、挫折しそうになる家を一軒一軒訪ねて歩き士気の維持に努めた。また道路の開削、青少年の教育と文字どおり寝食を投げうって走り回った。
「真面目で意志が強い人。いったん決めたら最後までやり通したと言います。少し頑固でもあったらしいですが」中山さんが伝え聞く木野の人柄。木野は北海道における最後の黒田武士であった。
入植した50戸中、一世紀を経た今、福移に残るのは4戸である。

(「広報さっぽろ北区版昭和59年9月号」掲載)

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