ホーム > 北区の紹介 > 歴史と文化 > エピソード・北区 > 第1章:太古から開拓へ > 8.南部盛岡藩士が入植-十軒
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1.遺跡から先史を辿る|2.奈良時代の北区を探る|3.篠路に石狩初の農村づくり|4.幕末、篠路に入地|5.親族の反対をおしきった開墾魂|6.殿様の余剰武士対策|7.北辺の理想郷目指し|8.南部盛岡藩士が入植|9.語源はアイヌ語?|10.地名に刻まれた歴史
大正の初め、十軒での農作業。女の人は長着のままである。このころ、もんぺはまだない。(大萱生秀俊さん蔵)
伏籠川。東区苗穂に源を発し茨戸川へ注ぐ。ちょうどその中間にあたり、篠路町上篠路に「十軒」と呼ばれる地区がある。現在は神社、町内会、会館などに名を残しているだけだが、昭和12(1937)年以前は正式な地名であった。この名は私たちの想像どおり、初めて入植した戸数に由来する。
明治維新の激変期に、南部盛岡藩では佐幕派が実権を握り官軍に対立した。その結果、新政府の敗戦処理は厳しく、士族の生活はたちまち窮乏した。
そこへやってきたのが開拓使のスカウト。二本差しを捨て農民になれば新しい生活と安住の地を保障するという条件。黙ってこのままじり貧になるよりは新天地での飛躍をと話に応じたのは80戸。父祖伝来の地を後にし、明治4(1871)年4月、小樽に着いた。そこから皆、荷を背負い何日もかかって札幌へ到着。そのころの札幌は木ばかりがうっそうと茂り家は少しも見えなかったという。80戸は月寒に44、花畔(ばんなぐろ)に20、円山に6、そして篠路へは10とそれぞれに分かれて入植した。
この10戸、どこへ入ろうかと八け(占い)をみたら東北が良いと言うので一行10戸はアイヌの先導で役人に連れられて札幌を出て伏籠川沿いの曲がりくねった道を進んだ。途中、東区妙見寺の付近に家が2軒ほどあったがそれからはずっとクマザサと原始林。いいかげん歩き疲れたところ「やあっ、こんな所に家があるといって皆休んだ。入ってみると寺であった……10戸の人々はここより北へは行かぬと言う。そしてそこでわらじをぬいだ」当時18歳で入植した瀬川以志の証言である。残念ながらこの寺の存在は今となってははっきりしない。
この新たにやってきた10戸48人を合わせ、篠路の総人口は117人となった。
この10戸は水の便利な川沿いに居を構えた。そのころの伏籠川は水量も豊富で飲み水や魚に不自由することはなかった。しかし川の両岸は空も見えない原始林。木を倒し、火を付けては焼き、その火は天も焦げるくらいに毎日毎日続いた。大木も多かった。一人では切れず皆が集まって共同で切り倒し、終えると祝い酒をくみかわすことも度々だった。また根を掘り上げるのに6、7年もかかるものがあったという。
川沿いだけに土地は良かった。また川につきものの水害も少なくその点では恵まれていた。しかし開拓が厳しいことに変わりはない。ようやく作物が実ったらシカに食い荒らされる。熊やオオカミが家の周りをうろつく。さらに冷害、干害、虫害など。自然の試練はとどまるところがなかった。1戸、また1戸と次々に土地を離れ、とうとう10軒全部がこの地を去ってしまった。現在残っている農家は最初に入った10軒に続いて盛岡からやって来た人、そして北陸からの入植者が多い。
「10軒の中には盛岡で相当位の高かった人もおり、武士の誇りを失わないようにと頑張ったようだが。結局、その誇り故に農民になりきれなかったのでは」郷土史『十軒』を編集した斉藤政美さん(59)。
「最初に入植した10軒がこの付近にかたまって生活していたのでこう呼ばれるようになったんです。入植直後からのようですよ」
現在この地区には団地もでき、色とりどりの家が軒を連ねている。
(「広報さっぽろ北区版昭和60年11月号」掲載)
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