ホーム > 北区の紹介 > 歴史と文化 > エピソード・北区 > 第1章:太古から開拓へ > 3.篠路に石狩初の農村づくり-荒井金助
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1.遺跡から先史を辿る|2.奈良時代の北区を探る|3.篠路に石狩初の農村づくり|4.幕末、篠路に入地|5.親族の反対をおしきった開墾魂|6.殿様の余剰武士対策|7.北辺の理想郷目指し|8.南部盛岡藩士が入植|9.語源はアイヌ語?|10.地名に刻まれた歴史
日本が開港を直前にしていたころ幕府は内外の情勢から、石狩地方を西蝦夷地のなかで、もっとも大切な場所と考え、上級の役人をおいて改革を進めていたが成果は挙がっていなかった。このとき、堀箱館奉行が手腕を見込んで改革を任せたのが荒井金助であった。
荒井金助、本名直盈(なおみつ)。文化5年(1808)、江戸に生まれた幕吏である。金助は、安政4年(1857)7月石狩役所に着任、3代目長官として7年間在任したが、期待にたがわず数々の改革を実行した。漁業生産高の向上と資源の保護、馬産、武士以外の者に対する教育などはその例である。
さて、札幌付近の農村づくりも金助によって開始され、その地は現在の篠路なのである。
当時、琴似方面に入地して農業を営もうとしていた人がいたが、金助は自ら土地開墾の手本を示そうと自費でこれら10余戸約50人の農民を篠路に移し荒井村を開いた。このとき、篠路の地を選んだのは、在住武士の輩下だった早山(そうやま)清太郎で、後に篠路村を本格的に開拓した人である。
篠路山龍雲寺に今も残される荒井金助自筆の由緒書(履歴書)
篠路の農民は、水田を作ることを願い、金助も望んだが、水田だけでは低温の年には大変なことになるので「田は4分、畑は6分の割合で耕作すべし」と教えた。そして、名主は世襲制をやめて3年交代とし、任期中は「渋田畑六」と改名させたが、なかなかユーモアを感じさせる。
金助の人柄について『札幌百年の人びと』から要約してみると次のようになる。「金助は大柄で色浅黒く鼻の高い50歳近い男である。実に穏やかな人で酒もたばこも口にせず、書生とか、旅の人物とかを愛し、彼らとの付き合いに費やす金が多く、あるときはそのために自分の衣食にもこと欠いた」。
数々の改革を行い、篠路村の前身である荒井村を開墾した金助も健康を害し箱館で静養中に、慶応2年(1866)、誤って五稜郭の堀に落ち58歳の生涯を終えた。
開拓使の役人になった長男好太郎も若くして事故死、その妻の夏子は自宅を寺として二人を供養した。この寺が今の篠路山龍雲寺(篠路町上篠路226)である。
住職の丸山彦立さん(61)は「荒井家代々の墓守はこの寺しかないんです。金助から四代目の太郎氏が昭和43(1968)年に神戸で亡くなりましてねえ。篠路にゆかりの荒井金助の血筋が絶えてしまったことは残念です」と語る。
龍雲寺には、金助筆の由緒書(履歴書)と過去帳が残されており、境内の一角には、金助の墓が労苦を共にした早山清太郎の墓と並んでひっそりと立っている。
明治35(1902)年建立された金助の墓碑(龍雲寺境内)
(「広報さっぽろ北区版昭和52年4月号」掲載)
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