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更新日:2011年2月10日

57.百合が原公園、サイロの謎

エピソード・北区

第7章:建物

51.天下の三名園を模倣?52.本道初のサケマスふ化場53.区内にあった斬首場54.水商売の女性たちが育てた水神信仰55.ホイラーの気象観測に始まる56.静寂な明治の世界・・・57.百合が原公園、サイロの謎

57.百合が原公園、サイロの謎

 

百合が原公園、サイロの謎1

大正期の中西家の木製サイロ

百合が原公園、サイロの謎2

昭和13(1938)年ごろの石造りのサイロ(写真提供:2枚とも中西俊一さん)

百合が原公園、サイロの謎3

現在、公園内に残るサイロ

百合が原公園は、札幌市内の中心部よりおよそ8キロメートル北東に位置し、敷地面積約24ヘクタールの総合公園である。昭和53(1978)年、昭和天皇在位50周年の記念事業として記念広場の造成が始まり、昭和62(1987)年に全面オープンした。公園には、その名の通り世界中から集められたユリが咲く世界の百合広場を中心に、4つの姉妹都市の庭園や花壇広場、温室があり多くの市民の憩いの場所となっている。
この公園では、昭和61(1986)年に「'86さっぽろ花と緑の博覧会」が開催され、期間中延べ147万人の人々でにぎわった。その博覧会の折に設置された、広大な園内を一周する「リリートレイン」では、電車に乗りながら公園の風景を楽しむことができる。市内でも電車が走っている公園はここだけである。
ところで、この電車が公園の中心部付近を走る線路のすぐ脇にサイロが建っているのをご存知だろうか。このサイロには、どのようないわれがあるのだろう。そう尋ねる人も多い。
「私の家はかつて、この公園のまさにサイロのところにあったのです。昭和53(1978)年に引っ越しましたが、このサイロは私の家のものだったのです」と話すのは、現在、公園のすぐ隣に住んでいる中西俊一(なかにししゅんいち)さん。「この地域が"烈々布"(れつれっぷ)と呼ばれていた明治のころ、祖父の中西藤一(なかにしとういち)は酪農を営んでいて、サイロを使用していたのです。当時は、木製のサイロでしたが、現在公園に残るサイロは石でできています。これは、昭和5(1930)年ころに設置したものなのです」と、懐かしそうに話を続ける。
篠路農業協同組合の組合長を務めていたお父さんの中西一男(なかにしかずお)さんは、札幌市が北区に大きな公園の造成を検討していることを知り、協力を申し出たそうだ。当時、この辺りの土地はほとんど農地であり、大規模な公園にするとすれば、地域の人々の協力が不可欠だった。一男さんも公園の意義と必要性を周囲の住民に訴え、多くの人たちから賛同を得ることができた。「父の話によると、地域の人たちへ説明に回っていく中で、天皇御在位50周年記念の公園を造るので、約50年たっているサイロも、記念に残せないかという声が上がったそうなんです」と俊一さんは話す。そのころ、この辺りは、都市化による開発が進むにつれ、点在していたサイロが次々に取り壊されていくような状況が続いていた。そのため、地域の人たちは、この地域がかつて酪農地帯であったことを記すものとして公園内に残してもらいたいと、札幌市に働き掛けた。
その結果、サイロは元の場所から10メートルほど移動したが、展望台として残されることとなった。公園の中心部に建っているサイロの中には、らせん階段が取り付けられ、最上部は展望スペースに作り替えられた。ここから、かつて酪農が行われていた場所から生まれ変わったユリの咲く広大な公園の雄大な景色を望むことができる。
昔、酪農家の人たちの生活を支えていたサイロは、酪農地帯から公園と住宅の共存するまちへと、この地域の移り変わりをじっと見続けてきた。そしてこれからも公園の中にたたずみ、このまちの営みや人々の生活を見守り続けていくことだろう。

(「新・北区エピソード(平成15年3月発行)」掲載)

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