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51.天下の三名園を模倣?|52.本道初のサケマスふ化場|53.区内にあった斬首場|54.水商売の女性たちが育てた水神信仰|55.ホイラーの気象観測に始まる|56.静寂な明治の世界・・・|57.百合が原公園、サイロの謎
明治5(1872)年の札幌西北部。北4条東1丁目の開拓使仮庁舎の望楼より西を眺めたもの(北大図書館蔵)
テレビや小説で人気のある捕物帳。十手や御用ちょうちんが登場し、召し捕られた犯人は白州(しらす)で「打ち首、獄門(ごくもん)」などと判決を受ける。こうした光景は江戸時代だけではなく、明治になってから、札幌でも普通に見られた。
明治の初め、札幌の町奉行所はどこかというと開拓使であった。また役所だけでは人手が足りなかったのか、江戸時代と同じように民間でも十手を預かる者がいた。彼らは「手先」と呼ばれ逮捕権を持っていた。犯人を捕らえるときは「御用だ、神妙にいたせ」と縄をうち役所へ引き渡した。また夜の捕物には御用ちょうちんが出動。時代劇さながらの捕物を繰り広げた。札幌の御用ちょうちんには御用という文字ではなく、丸に一の字が入っていたという。
当時の犯罪ワーストスリーは泥棒、ばくち、失火である。失火が第3位に顔を出すのはいかに火事が多かったかという証しである。実際、このころ札幌で恐いものは「地震、雷…」ではなく「火事、水害…」であった。
一獲千金の夢破れたせいか、娯楽が少なかったからか、賭博犯も多かった。これに対して江戸時代と同様、50たたき、100たたきと言って背中を打つ刑が適用された。と言っても、実際体に当たるのは最後の2つだけ。あとは音だけさせていたという。
重罪犯はやはり死刑になった。方法はやはり江戸時代と同じように打ち首。しかも処刑は公開されていた。この処刑を目撃した証言がある。証人は開拓使顧問ホーレス・ケプロン。明治7(1874)年6月の日記にこう記している。「時間が迫ると、それを見るために大勢の人が集まってくる」群衆の中に処刑される人もいるが縄をかけられていないのでだれも気が付かない。刑場には深さ60センチほどの穴が掘られ、そばには「酒樽のような棺桶が置いてある。罪人が人込みの中から前へ出て来て、マット(むしろ)の上にひざまずき、穴の方に身を傾ける」「2本の刀を差した男が前へ進み出る。長い刀を抜いて両手で持ったかと思う瞬間、一撃のもとに首は地上に転がった」ケプロンが見た処刑は実に短時間で終わったという。
死刑にも重い軽いがあった。重い刑は梟(きょう)という。これは切った首を台に載せてさらす刑である。札幌でこの獄門台に登ったのはただ一人カヨという女性である。
カヨには仁太郎という夫があり、余市に住んでいた。どういうなれそめか、あるお寺の住職と親しくなった。そこで邪魔になった夫を毒殺した。毒はアイヌがクマ狩りに使う"ブシ"で、カスベのぬたに入れて食べさせたという。今と違い男女関係が厳しかった時代。カヨは極刑に処せられた。
獄門台は中央区、東本願寺の前にあった。台の周りには縄張りをし、昼夜の別なく番人がついた。もっとも夜は人通りがないので首をおけに納めていたという。この事件は当時大変なセンセーショナルなものだった。流行歌ができ、カスベのぬた殺しと言えば知らぬ者はなかったという。
札幌の鈴ヶ森、小塚原(こづかっぱら)ともいうべき斬首場は区内にあった。記録では「偕楽園の奥、旧競馬場の側」となっている。それはどこか?地域の方や、いろいろな方にお話しを伺ったが結局はっきりした場所は分からなかった。競馬場は今の北大農学部付近といわれているので、斬首場はポプラ並木のある北大農場か、あるいはクラーク像のある中央ローン付近でもあろうか。四季折々にたくさんの観光客が訪れる北大。そこにかつての斬首場があったことを知る者はいない。
(「続・北区エピソード史(昭和62年3月発行)」掲載)
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