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51.天下の三名園を模倣?|52.本道初のサケマスふ化場|53.区内にあった斬首場|54.水商売の女性たちが育てた水神信仰|55.ホイラーの気象観測に始まる|56.静寂な明治の世界・・・|57.百合が原公園、サイロの謎
明治11(1878)年の偕楽園ふ化場。明治12(1879)年には「一棟新設並びに従前のふ化場二棟引き建て直し物置小屋一棟厠1カ所取り建て」養魚池や川も整備している(北大図書館蔵)
ふ化場の様子(『新札幌市史』から)
「昔は植物園の近くまでサケがたくさん上って。子供のころよく見ましたよ」と鉄西地区の柴木外幾男さん(73)。区内のほぼ中央を流れていたサクシュコトニ川(旧琴似川)にはサケが上っていたばかりではなく、本道第1号のふ化場があった。場所は北大の南、偕楽園である。それは世界一と言われる日本のふ化事業のあけぼのでもあった。
明治の初め、石狩川河口では川からサケがあふれていた。1網3000から5000匹。1年では180万匹という。これは今、道内の全河川に上る量をはるかに上回る驚くべき数字である。本道初のふ化事業はこのようなときに始められた。
遠く大洋を回遊してきたサケは、石狩湾から石狩川へ入り、旧石狩川(現在の茨戸川)、伏籠(ふしこ)川を経てサクシュコトニ川へ入り、水源となっていた北大植物園付近までさかのぼったという。
当時、偕楽園はサケの生育に申し分のない環境であった。付近にはメムと呼ばれるわき水がたくさんあり、川となっておだやかに蛇行していた。この川には千数百年も前からサケが大量に上っており、たくさんの人がその恩恵を受けていた。
初めて人工ふ化が試みられたのは明治10(1877)年。石狩でサケ缶詰の技術指導に当たっていた「お雇い外国人」トリートが偕楽園へ卵を運び込んだ。この時は「40キロものひどい悪路を苦労して運びましたが着いた時には全部凍死していました」とトリートは手紙に書いている。
卵がかえったのは翌年。千歳川で捕れたサケ15匹から2,000粒を採卵ふ化している。また、琴似川や豊平川からもサケやマスを捕りふ化を進めた。
ふ化は偕楽園のほか函館郊外の七重、東京でも行われていた。偕楽園産の卵は成績が良い方だったが初の試みだけに苦労話は尽きない。
明治12(1879)年、ふ化場が新設された時、最新の設備を取り入れた。ふ化器を6段に重ね、水車の動力で噴き上げた水が順番にふり注ぐようにした。また筒の口には鉄網を張った。これは「水虫の害」を防ぐためである。しかし依然水虫は侵入してきた。
この大敵の正体は細菌らしい。当時は卵を害する水生菌のことを知らなかったので小さな虫と考えたのであろう。細菌相手ではいくら水を噴き上げても、鉄網を張っても防ぎようがなかった。さらに予期しない被害もあった。サケの卵のイクラは人間ばかりではなく、魚や動物にとっても大の好物。せっかく苦労して育てた卵がネズミに食い荒らされてしまうこともあった。
「ふ化事業はお国の利益になります。川に上るサケが増えるだけではなく、全くいなかった川にも上るようになります」トリートは時の開拓使長官黒田清隆にふ化事業の必要性を強調している。しかし、偕楽園での成績は悪過ぎた。ふ化率は2、30パーセントくらい。実用には程遠い状況であった。ふ化は自然に任せるべきだとの意見が強くなり、偕楽園試験場はわずか4年で任務を終えた。
「技術的に未熟だったのが大きな原因でしょう。それに当時はまだ捕り尽くせないほどサケが上っていたので理解を得られなかったのでは」とふ化の歴史に詳しい秋庭鉄之さん(60)。
本格的なふ化事業の再開は明治22(1889)年、千歳中央ふ化場の建設を待たなければならなかった。
(「広報さっぽろ北区版昭和59年12月号」掲載)
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