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ホーム > 北区の紹介 > 歴史と文化 > エピソード・北区 > 第2章:屯田兵 > 17.荒野にともる開拓の灯-篠路兵村

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更新日:2011年2月2日

17.荒野にともる開拓の灯-篠路兵村

エピソード・北区

第2章:屯田兵

11.反乱事件も遠く12.風雪に耐え九十年13.いろりの座り方は決まっていた14.貴重な遺産を発掘15.生命を支えた竹16.明治の遺構、開拓の心を今に17.荒野にともる開拓の灯18.娯楽の花形、草競馬19.祭りの起こりは西郷どん

17.荒野にともる開拓の灯

篠路兵村

 

荒野にともる開拓の灯

まだ残っていた篠路屯田兵屋。明治22(1889)年、入植当時の屯田兵屋=北区屯田街382、佐藤健次郎さん宅物置

第1中隊が琴似、第2が山鼻、第3が新琴似、第4が篠路屯田屯田地区のあけぼの

政府さし回しの運送船・相模丸が瀬戸内海を出航したのは、明治22(1889)年7月某日である。
「北海の浜に行き事に従わん」
北辺警備と開拓を目的にした男たち220人に、その家族を含めて1,056人が乗船した。荒波にもまれて同月14日、一行ははるばる小樽に上陸する。
船旅の疲れを宿舎で癒やし、翌朝汽車で琴似へ。それから徒歩で永住の地篠路に第一歩を踏み入れた。明治22(1889)年7月15日のことである。ここに昼なお暗い原始林の荒野に開拓の灯がともった。現在の屯田地区の"あけぼの"である。
移住地には、220戸の兵屋が軒を並べていた。人々の出身地は九州、四国、近畿などすべてが暖国。木造平屋のおよそ寒地向きとは縁遠い家屋構造だったが、大地との過酷な労働を癒やすかけがえのない"わが家"にかわりはなかった。
戸主は屯田兵第1大隊第4中隊の配属である。第1中隊が琴似、第2が山鼻、第3が新琴似。第4の篠路は札幌では最後にやって来た屯田兵で、開墾も容易にみえたが、実際は苦難の連続となった。

悪夢の「明治37(1904)年」

入植3年後の兵村大火、8年後の大水害。相次ぐ災禍は屯田兵の"開拓者魂"を根から奪う羽目になる。屯田兵の離脱も多く、3分の1の72戸に激減したのもこのころだ。
ことに明治37(1904)年は不運が重なった。
歴史に残る石狩川のはんらんで田畑は濁流にのまれた。その時のことを屯田兵2世の梶浦秀雄さん(79)は「みんな高台の小学校の方に避難した。その時初めて白い米のにぎりめしというのを食べた。あの時の味は忘れられない。私は7つでした」と述懐する。
屯田兵制度の廃止でこれまでの援助が打ち切られ、日露戦争のあったのもこの年だ。篠路兵村からも日の丸の小旗に送られて働き盛りの男たちが出征した。
37(1904)年9月。与謝野晶子は「旅順包囲軍の中にある弟を歎(なげ)きて」の副題をつけて、「ああをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ」の反戦詩を発表している。篠路屯田兵には忘れられないあの相模丸もこの年、晶子の弟が従軍した旅順包囲作戦の際、旅順港口に沈められた。兵村にとって明治37(1904)年は悪夢に暮れた。
屯田地区が水田の実りも美しい穀倉地帯として再生したのは、実にそれから12年後であった。
(「広報さっぽろ北区版昭和51年11月号」掲載)

※現在、佐藤健次郎さん宅物置は屯田郷土資料館に移設・保存されている。
(平成19年3月加筆)

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