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11.反乱事件も遠く|12.風雪に耐え九十年|13.いろりの座り方は決まっていた|14.貴重な遺産を発掘|15.生命を支えた竹|16.明治の遺構、開拓の心を今に|17.荒野にともる開拓の灯|18.娯楽の花形、草競馬|19.祭りの起こりは西郷どん
今度発掘されたもやい井戸。底に見える竹筒は水源まで通じていた
井戸の予想図。おけが下方に広がっているのは、浮き上がるのを防ぐためである。
北辺の警備と開拓に従事した屯田兵。その過酷な生活を支え続けた古井戸が、新琴似5条4丁目で見つかった。いままで市内では「屯田兵の井戸」として発掘されたものがなかっただけに貴重な遺産となりそうだ。
この井戸は、一般的な素掘りのものと違って、直径90センチ、高さ70センチの桶(おけ)を地中半分まで埋めたもの。桶の底から水源まで通じているモウソウ竹の継ぎ目にはコンブが巻かれ、全長約30メートルはあるという。コンブは、現在のパッキン代わりだろうか。
『北海道屯田兵制度』(上原轍三郎著)には、新琴似屯田兵が入植する前年の明治19(1886
)年に陸軍省が4戸ごとに井戸を構築したとある。
当時、井戸には風呂が併設されていたが、これらは、開拓者の生活に欠くことのできないものであると同時にとかく崩れがちになるお互いの心を励まし合う、だんらんの場にもなったことだろう。
屯田兵2世の西山忠利さん(80)は「新琴似に数多く点在したこれらの井戸を、入植者はもやい井戸(共同井戸という意味)と呼んでいた。そこには、きれいな水が1尺(約30センチ)も噴き上がり、飲むと甘みがあっておいしかったよ」と水質、水量に恵まれていたことを語る。
井戸と切りはなせない風呂は、4戸が交代で沸かした。風呂に入る順番は各組により異なっていた。ある組は時間を決め、ある組は拍子木を鳴らし、早い者順に入る状態であったという。
井戸、風呂の共同使用は、生活上なにかと不便なため、徐々にその数が減っていった。その中で、2、3の井戸が近年まで、生き続けた。その例として次のことが伝えられている。昭和の初め、故山本長三郎ほか有志4人が新琴似5条4丁目に共同作業所を設置し、主にたくあん作りを行った。豊かにわき出る井戸水を利用し、終戦ごろまで盛んだったようだ。
また、酪農をやっていた家では牛乳の保存にこの井戸を利用した。夏は冷たく冬は温かいため、一定の温度を保ち鮮度を落とさず出荷できたという。
昭和18(1943)年ごろ、ポンプが一般に普及。井戸は前時代的な物として、生活から切り離されていく。そして、残り少なくなった屯田兵時代の井戸も、不必要なものとして埋められていった。
井戸を埋めるに際し、ここに面白い話がある。野間盛男さん(81)が語る。「井戸に梅と塩を入れ、竹の中には葦(よし)を入れて埋めた。これは塩で清め、ウメてもヨシという縁起なんだよ。子孫には井戸の上に家を建て、水神様を怒らせては家が栄えなくなるぞと先祖の教えを伝えたもんだよ」新琴似の原野を切り開いた先人たち。その飢えや渇きをいやしてくれた水は、まさしく生命(いのち)の水でもあったろう。
今、我々の前に姿を現した井戸。新琴似の夜明けを語る、歴史の証人である。
(「広報さっぽろ北区版昭和53年7月号」掲載)
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