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更新日:2023年1月10日

11.反乱事件も遠く-新琴似屯田兵

エピソード・北区

第2章:屯田兵

11.反乱事件も遠く12.風雪に耐え九十年13.いろりの座り方は決まっていた14.貴重な遺産を発掘15.生命を支えた竹16.明治の遺構、開拓の心を今に17.荒野にともる開拓の灯18.娯楽の花形、草競馬19.祭りの起こりは西郷どん

11.反乱事件も遠く

新琴似屯田兵

 

市文化財に指定された新琴似屯田兵中隊本部

詠草=吹田晋平さん(新琴似屯田兵2世)絵=米谷哲夫さん(新琴似中学校教諭)

「新琴似の川にはサケやマスなどがあふれている。原始林には5円、10円の紙幣がぶら下がっており、これは切った者の所有になる」──屯田兵徴募官のこんな話を聞かされた旧士族が、九州のとある港から御用船「日の出丸」に乗って、小樽に着いたのは明治20(1887)年5月20日のこと。これが新琴似屯田兵の第一陣であり、開村の始まりでもある。
人跡未踏の新琴似開拓にやって来た第一陣は、九州の士族を中心に146戸。まず、一行は先住の琴似屯田兵の歓迎を受けて、雨の中を新琴似の地に第一歩を踏み入れた。
ハルニレ、ヤチダモ、センノキ、ハンなどがうっそうと茂る密林の中、割り当てられた46,000平方メートルの土地に、ポツンと建てられた兵屋(家屋)に入ってみれば、57平方メートル余りの平屋建て。家財道具の大半は完備されていたが、あまりの生活の変わりように人々は思わず落涙したという。
3日間の休息を終えて、すぐさま開拓者としての過酷な生活が始まる。起床─午前4時、就業─同6時、食事─12時、引揚─午後6時。
いつクマに襲われるかも知れない密林の中、初めて手にするおのやのこぎりで、自然との戦いに全身をなげうった。さらに月3、4回の軍事教練。
この年の召募年齢は、18歳から35歳。人員の充足を急いだため、かなりの年の人も戸籍を適当に訂正して合格させた。この"速成若返り法"で誕生した屯田兵は、紅顔の美少年も白髪の老人も、全て若き屯田兵として教練を行ったから、このときばかりは練兵場(新琴似小あたり)も笑いが絶えなかった。
そのころ新琴似屯田兵を統率していた人は安東貞一郎中隊長。
彼は兵村の中央を貫く重要排水の改修工事を手掛けた。この排水溝は以来、安春川と呼ばれている。
このように開拓も軌道に乗ったが、一方では、望郷の念や困苦に耐えられず、無断で帰郷や、夜逃げをする脱落屯田兵も数戸あった。

新琴似の一揆騒動は積穀一件に原因せり=「札幌昔日譚」

ひとつの忌まわしい事件が、新琴似屯田兵村を舞台に発生したのは明治23(1890)年のことである。原生林がうっそうと茂る昼なお暗い新琴似に、屯田兵が入植してからわずか3年目のことであった。

本部前で非常ラッパ

事件は、新琴似兵村の兵事を総括する安東貞一郎中隊長の官舎でぼっ発。やり、刀、銃で武装する総勢10余名の一団が、中隊長宅を包囲したのはその年の10月、深夜のことである。
「ズドーン」窓を破って飛び込んだ銃弾にただならぬ気配を感じた貞一郎は、一団の進入に備え自分は前の戸口に伏し、弟を後ろの戸口に伏せさせ、抜刀で身構える。
中隊長めがけて発砲した銃声が寝静まる新琴似の夜空に響く。銃声を聞いた小隊長の森蔵次(?)は一大事を察し、中隊本部(新琴似神社境内に現存=市有形文化財)前で非常ラッパを吹き鳴らす。驚いた屯田兵200余名は全員、兵服に身を包んで本部前に集合した。
事件は未遂に終わったが実弾を発射した一団は、なんと同村の屯田兵だった。

米価騰貴が背景に

「新琴似の一揆騒動は積穀一件に原因せり」『札幌昔日譚』と富田貞賢は事の真相を伝えているが、当時、屯田司令部は不況不作に備えるという名目で給与米の一部備蓄を実施した。事件は米価騰貴のため、備蓄米の一部を戻してほしいという一般屯田兵の要求から起こったものである。また一説では、給与米の積み立て1割5分を中隊長が独断で3割に増やしたことが原因とも言われる。
「事件の背後に黒幕があった」との記録があるが、反乱兵士の営倉送り、処刑、中隊長の重謹慎処分でこの事件は"落着"した。備蓄制度は事件後も実施されている。しかし、積穀もそのままでは虫害にあったりするので、やがて、これを金に換えたり漁業家に貸し付けたりの"金融業"が始まる。こうして得た基金や他の中隊の財力をもとに「屯田銀行」が創立されたのは、事件から1年後の明治24(1891)年である。そして3年後、日清戦争が起こったが、新琴似では反乱にまで発展した屯田兵の辛苦の積立金が「戦役中に於ける札幌経済界の危急を救ひたり」と『札幌区史』はつづっている。
いまや狙撃事件は、遠い昔の出来事となったが、ただ新琴似屯田兵が最初に入地した"明治20(1887)年5月20日"が、冷たい雨が降る日であったように「開村以来、毎年5月20日は決まって雨降りの日が多い。きっと先人の涙雨だよ」と新琴似の古老はいう。

(「広報さっぽろ北区版昭和49年6月号・昭和51年4月号」掲載)

※「ハルニレ」の木は昭和53年9月道路拡幅に伴い、その姿を消した。

(平成20年3月加筆)

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