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ホーム > 北区の紹介 > 歴史と文化 > エピソード・北区 > 第2章:屯田兵 > 19.祭りの起こりは西郷どん-招魂(しょうこん)祭

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更新日:2023年1月10日

19.祭りの起こりは西郷どん-招魂(しょうこん)祭

エピソード・北区

第2章:屯田兵

11.反乱事件も遠く12.風雪に耐え九十年13.いろりの座り方は決まっていた14.貴重な遺産を発掘15.生命を支えた竹16.明治の遺構、開拓の心を今に17.荒野にともる開拓の灯18.娯楽の花形、草競馬19.祭りの起こりは西郷どん

19.祭りの起こりは西郷どん-8月2日、偕楽園は大にぎわい-

招魂(しょうこん)祭

 

西郷隆盛

井偕楽園、北6条西8丁目に建っていた招魂碑。近くには競馬場もあり祭りは大変なにぎわいだった

「2日は屯田兵の招魂祭で馬駆け(競馬)があるというから偕楽園まで出かけてみるとあるともあるとも…むやみに駆け回る乗りてありて往来の人などは蹴(け)たおすほど」。また、「市中は踊り屋台を引き回り、各戸には国旗を掲げ球燈(ちょうちん)をつるし又花火もありてすこぶるにぎわった」。新聞が伝える招魂祭の様子である。このお祭りは明治の中ごろ、清華亭付近で行われていた。学校も休みで、相撲や競馬が行われ、札幌神社(現在の北海道神宮)と並ぶ札幌の2大祭典であった。

西南戦争──屯田兵も出征

明治10(1877)年、九州で西南戦争がぼっ発した。これは西郷隆盛が維新政府に反対する士族に担がれて起こしたもの。明治維新の象徴ともいうべき西郷の乱に、日本中は上を下への大騒ぎになった。札幌も例外ではない。入植後間もない市内の屯田兵にも全員出征が命じられた。
さて、その戦いぶり。「屯田兵は他の隊に比べ将校の負傷者が少ない。へんだと思っていたが今日の戦闘を見てよくわかった。戦っているのは兵隊だけだ」他の部隊の将校がこう評したという(『琴似町史』)。実は内部に複雑な「お家の事情」があった。屯田兵の将校は指揮官の堀大佐はじめ大部分が薩摩の出身。同郷の人望絶大な西郷らが相手では自然と指揮も鈍ったであろう。ところが兵士はすべて東北出身、なかでも会津藩士が多かった。維新の戦争で薩摩兵と激戦を交え敗れた人たちである。あのときの弔い合戦とばかり、将校の指揮を待たず勇猛ぶりを発揮したのだという。

西郷の恨みか

戦闘の大勢が決した8月21日、屯田兵は鹿児島から札幌へ向かった。ところがこの凱旋(がいせん)軍に予期せぬ敵が襲いかかった。コレラである。当時まだコレラ菌は発見されておらず原因不明の難病だった。かかればイチコロに死ぬから別名「コロリ」。患者が出る度にパニックに陥ったことは想像に難くない。大阪、東京、函館、小樽と患者が出る度に下船、入院させた。札幌へ戻ってからも猛威は止まず、戦闘よりもはるかに多くの犠牲者を出した。当時、これは西郷さんのたたりだといわれ、西郷病と恐れられた。

引っ越した祭り

この戦争で戦死、病死した屯田兵の霊を慰めるため建てられたのが「屯田兵招魂碑」。場所は偕楽園の前、北6条西8丁目で明治12(1879)年に完成した。そして屯田兵が最後の激戦を展開した高鍋城陥落の8月2日を祭日にしたのである。
この大きなお祭りは10年ほどで中島へ引っ越してしまった。招魂碑そのものが中島遊園へ移ったからである。碑は一時行方不明になったが昭和の初期、護国神社境内(南15条西5丁目)に移され現在に至っている。盛大だった祭りも、碑が転々とし過ぎたせいか、いつしか消えてしまった。人、土地と密接に結びつかないお祭りは長続きしないことの証しでもあろうか。
今、護国神社境内で静かに建ち続けている招魂碑。西南戦争という明治の大事件を語る数少ない証人である。
(「広報さっぽろ北区版昭和60年8月号」掲載)

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