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ホーム > 北区の紹介 > 歴史と文化 > エピソード・北区 > 第2章:屯田兵 > 15.生命を支えた竹-上総(かずさ)掘り

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更新日:2011年2月2日

15.生命を支えた竹-上総(かずさ)掘り

エピソード・北区

第2章:屯田兵

11.反乱事件も遠く12.風雪に耐え九十年13.いろりの座り方は決まっていた14.貴重な遺産を発掘15.生命を支えた竹16.明治の遺構、開拓の心を今に17.荒野にともる開拓の灯18.娯楽の花形、草競馬19.祭りの起こりは西郷どん

15.生命を支えた竹-各地にあった自噴井戸-

上総(かずさ)掘り

 

生命を支えた竹

「井戸掘り日本」を世界に響かせた原動力、上総掘り、竹ひごの先に5~6メートルの鉄管を付け、これを上下させて掘り進む。手軽で深く掘れるのが特徴である。写真は昭和の初めか、篠路町太平での上総掘り

「より深く、よりたくさんの水」

明治20(1887)年、新琴似に入植した屯田兵が使った「もやい(共同)井戸」。4戸ごとに設けられ風呂も付いていた。それを賄うだけの水が竹筒からこんこんとわいてくるはずだった。しかし、そううまくはいかない。「全く用ふべからざるもの及び全く湧出せざるものまた挙て数ふべからず」明治23(1890)年の新琴似兵村記録は嘆いている。水は死活問題。
そこで井戸掘り機械を買ったが「短くして当兵村の水脈に達せ」なかったという。まさに踏んだりけったりであった。このもやい井戸はきりに鉄棒かカシの棒を付けて掘ったものらしい。「上方掘り」と呼ばれる方法である。この工法ではあまり深く掘れず、新琴似の水脈に届かなかったのだろう。
「より深く、よりたくさんの水」は新琴似の悲願であった。

救いの主「上総掘り」

新琴似が水で苦しんでいるとき、千葉県君津市では画期的な井戸掘り工法が産声を上げていた。世界に誇る日本独自の技術「上総(かずさ)掘り」である。丸太でやぐらを組み中央部には大きな車。一見、水車かと思われる装置を使う。この工法の秘密は竹。鉄棒に替え竹ひごを、そしてきりを上下させるときにも竹の弾性が巧みに利用されている。竹のおかげでそれまでの10倍以上も深く掘れるようになり、温泉や石油のボーリングに大活躍した。

日本一の職人が来道

この技術が生まれたばかりの明治25(1892)年、新琴似では早くも上総掘りが行われた。水稲に挑戦していた鹿児島県出身の大久保喜一郎が東京から日本一と言われた職人を呼んだ。かんがい用の井戸掘りのために。数カ月かかって50メートルほど掘り進んだとき、突然水が噴き上がった。その決定的瞬間に大久保は不在。彼は畑で馬をとばしてきた隣の人の叫び声を聞いた。「大変な水だ。あのままではうちの方まで水に漬かってしまう!」

伝統技術の盛衰

仕組みは簡単。必要なのは竹と人手だけ。上総掘りは大正から昭和にかけ全盛期を迎えた。新琴似、烈々布(現・太平)、篠路。あちらこちらで竹から水が噴き出していた。飲料水ばかりではなく、かんがい用水にも多く用いられた。「クルマにツナを巻きつけ、『ヨイショ、ヨイショ』と掘ったもんさ」井戸掘り30年の三好三四五(みよい)さん(79)。しかし、竹の自噴井戸は長く続かなかった。丈夫で長持ち、亜鉛メッキ管が竹に替わった。工法も「打ち込み」になり、人に替わって発動機が登場。竹の井戸は一つ、またひとつと街中に埋もれていった。
昭和58(1983)年に、"カズサ"はフィリピンでよみがえった。海外へ技術輸出されたのだ。ヤシの木陰でくるり、くるりと回るクルマ。それは日本の伝統技術を忘れてしまった私たちへの警鐘ではなかろうか。
(「広報さっぽろ北区版昭和59年5月号」掲載)

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