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ホーム > 豊平区の紹介 > 豊平区の歴史 > 地名で見る豊平区

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更新日:2022年12月23日

地名で見る豊平区

 各地区の地名の由来

豊平

 アイヌ語で「トイェ・ピラ」という「崩れた崖」を意味する豊平川の川岸の一部の呼び名からこの地名が付きました。
 志村鐵一が定住した豊平川の渡し場は、「樋平のわたし」と呼ばれていました。

 

旭町

 この地域は、もともと「豊平○条○丁目」と呼ばれていました。昭和25(1950)年から「旭町」と呼ばれるようになり、リンゴの品種名にちなんだとも、町の発展に期待を込めて付けられたともいわれています。

 

水車町

 かつて、この地域に水車があったことから付けられました。明治30年代から大正末期にかけて、豊平川の枝川(水車川)流域に7軒の水車小屋がありました。水車は、精米や製粉のための動力源として使われていました。
 もともとは「豊平○番地」と呼ばれていましたが、昭和になってからは「豊平川岸○丁目」や「水車通り」と呼ばれていたこともあります。

 

美園

 豊平村の一部だったこの地域は、開拓当時、「望月寒川沿」と呼ばれていました。明治43(1910)年に豊平町大字豊平村の一部が札幌区に編入されたとき、編入されずにそのまま残ったため、「残村」と呼ばれていた時期もあります。
 昭和19(1944)年、「御園」と字名が変更されましたが、その後すぐに現在の「美園」に修正されました。当時、ここには花き栽培農家が多くあり、花園のように花畑が広がっていたことから付けられたといわれています。

 

月寒

 語源は、アイヌ語の「チ・キサ・プ」(われらが木をこするもの)という説と、「チ・ケシ・サプ」(丘の外れの下り坂)という説があります。
 月寒地区の東側は、「八紘」の字名で呼ばれていた時期もありましたが、戦後の改称で「東月寒」となりました。
 現在、住所では月寒中央通、月寒西、月寒東となっています。

 

中の島

 豊平川とその支流である精進川に囲まれた、大きな中島であったことから付けられました。明治時代は「中河原」、大正時代は「中島」と呼ばれ、昭和8(1933)年ころから「中の島」と呼ばれるようになりました。

 

平岸

 アイヌ語の「ピラ・ケシ・イ」(崖の・尻の・ところ)から付けられたといわれています。
 開拓当時製網の原料である麻を栽培したところから、「麻畑」とも呼ばれていました。

 

西岡

 開拓当時は、「焼山」と呼ばれており、開墾の火が周辺の森林に飛び火して、たびたび山火事が発生したためにこの名が付けられたようです。
 明治42(1909)年に「西山」と改称され、さらに昭和19(1944)年に現在の「西岡」になりました。月寒地区の西に位置し、丘陵地帯となっているところから「西」に「山」または「岡」が付いたと伝えられています。

 

福住

 明治4(1871)年、月寒に入植した開拓移民のうちの6戸が、月寒川を挟んで東側の少し離れた場所にあったことから、「六軒村」と呼ばれていました。開拓当初は、ススキなどが生い茂る湿原が広がっていたことから、「茅野」とも呼ばれていました。
 その後、「月寒西通」と改称し、昭和19(1944)年に「福住」となりました。この名は、現在もこの地にある福住寺にあやかったとも、幸福が住むようにとの願いが込められたともいわれています。

 

羊ケ丘

 この地域は、「焼山(現在の西岡)」の一部でした。明治39(1906)年に農商務省月寒種牛牧場(現在の北海道農業研究センター)が創設され、その後大正8(1919)年に月寒種羊場が設置されたことから、通称「種羊場」と呼ばれていました。昭和19(1944)年に「羊ケ丘」と改称されました。

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