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更新日:2018年6月26日

清田区民フォーラム記念講演「地域に生きる」

清田区民フォーラムの様子

(清田区民フォーラム)

実施日等

平成20年11月4日、清田区民センター

講師

峯山冨美(みねやまふみ)氏

小樽再生フォーラム顧問。元小樽運河を守る会会長として、会の発足から運河保存に関わる市民運動の先頭に立ち、会長を辞任するまでの10年間に多様かつ活発に活動を展開。その意義は、運動の実質的な終結後20年以上を経過した今日においても薄れることなく、小樽はもとより横浜、大阪など全国のまちづくりに大きな影響を与え続けている。平成20年、日本建築学会文化賞を受賞。

今日の講演会では、私たちが、なぜ10年という長い年月を運河保存にかけたのかを、まずお話したいと思います。

 

【運河の果たしてきた役割】

かつて、小樽の港に着いた船が荷物を蔵に入れるためには、運河が必要でした。運河は大正9年に造られ、当時は幅40m、長さ1,324mで、海岸線に沿っているために弧を描いていました。運河のそばには石造り倉庫があり、それぞれに意匠がこらされ、いかにも小樽商人の意気込みがしのばれるような、一つ一つが個性あるすばらしい倉庫群です。当時は、120棟程建っていました。その美しい造形を絵描く人がおり、文学や映画などの舞台にもなりました。更に、明治建築小委員会が、日本に残したい町並み三つのうちの一つに、小樽運河をあげました。

しかし、そういう『お墨付き』があったから、私たちは運河を残そうとしたのではありません。小樽市民にとって、運河にはどんな意味があるのかが、小樽運河を守る会にとって一番大事なことだったのです。

小樽の町は、明治末から大正、昭和一けたまでが最も栄えました。年間6,247艘にのぼる船舶が港に入りました。船の荷物を、はしけへ移し、はしけが運河を通って倉庫に収めました。倉庫から荷物を出すときは、その逆です。そこでは、朝早くから夜遅くまで人夫たちが一生懸命に働いていました。運河は、小樽の町の心臓部であり、かけがえのない場であったのです。

【モータリゼーションの拡大と運河】

戦後になり、樺太、満州、沿海州など船の行く先々が途絶え、船が入ってこなくなり、小樽は斜陽の町となりました。モータリゼーションが進み、車で札幌から後志地区に行くときに、国道5号線だけでは交通渋滞が激しくなりました。そこで渋滞を避けるために、5号線の横に、道路をつくる話が出てきました。

当時、運河にはヘドロがたまっており、倉庫も朽ちかけていました。そんな状況でしたので、補償費もかからず簡単に道路工事ができるだろうと、昭和42年、小樽市は運河を埋め立てて道路をつくることを議会で決めました。予算も付き、大臣認可もおり、工事に入る頃になって、小樽市民は運河がなくなることを悟りました。

市民は、「運河を守り、運河を残して欲しい」と市に申し入れました。しかし、行政は議会で決まったことであり、正式な手続きを踏んでいるので、どんな願いが出てこようとも、既定方針通りに運河を埋め道路をつくる姿勢を絶対に崩しませんでした。

【小樽運河を守る会の誕生】

そこで、昭和51年、有志によって守る会が結成されました。ところが、初代会長の急死や運動の先駆者の降板により、発会したばかりの守る会は壊滅状態になりました。

その時、「我々だけでも小樽運河を残そう」「我々だけの力だけでもやってみよう」と、わずかな人数の市民が集まりました。更に、「小樽は運河を失ってはいけない」という北大の3人の若い研究者が、シンクタンクとなり運動が始まります。

私たちは、陳情、要請をひと月に1回、2回と、重ねて小樽市に出しました。しかし、行政は、「正しい手続きを踏んだことなので、今さらこれを変えることは絶対にできない」という態度を崩そうとしませんでした。

国内の都市計画や建築関係の偉い学者が小樽に来て、「小樽は運河をつぶしてはいけない」、「なんとか残すべきだ」と運河保存を申し入れて下さいましたが、行政はあくまでも「正しい手続きを経たのだから」という線を崩しません。

【小樽を見て、考え学びながらの運動】

そこで、私たちは運河講座を開きました。3年間で27回開き、いろいろな角度から小樽を見て、考え、「運河が、なぜ必要なのか」を勉強しました。私たちは、何も知らないズブの素人たちの集まりでした。私自身も一介の主婦でしたので、何も分かりませんでしたし、年齢も還暦を過ぎていました。

そんな私が、なぜ会長になったのか。当時、小樽では、それ相当の方々は運河問題には関わらなかったのです。行政に反対するようなことは、自分の立場上のこともあり難しかったのだと思います。

私たちは学びながら運動を進め、6年間がんばりました。その6年の間に、マスコミが非常に協力的に運河問題を取り上げるようになりました。

当時の運河はヘドロで臭いので、「道路になった方が、臭いもなくきれいでよいのでは」という考えの人や、「道路にした方が経済的にもいい」という考えなど、埋め立て促進派が圧倒的に多数でした。一方、保存派は、指折り数えてみる程度しかいませんでした。全然話にならないような力の差でした。

そのような厳しい状況でしたが、「自分たちが生きている今において、運河や倉庫を失ってはいけない」、「過去の人たちが多くの努力を重ねて北のウォール街ができるほどの経済力を持つことのできた運河を、どうしても守りぬかねばならぬ」という信念の下に、運動は続けられました。

ところで、運河保存の意見をもつ「外堀」の先生方は、本当によく小樽を訪ねてくださいました。なぜ、数多く来てくださったのか。それは、運河問題が起きた昭和51年頃の時代背景にあったと思います。敗戦後の日本は、開発や経済優先で、何とか元気を取り戻そうとしていました。それに伴って、日本の大切な遺産が失われていくことを憂えていた時代に、この小樽運河問題が起きました。京都大学や東京大学の先生方が入れ替わり立ち替わりに来て、私たちを励まして下さいました。10人足らずで行っていた私たちの運動でしたが、協力や支援してくれる団体も増えて、力強く運動を進めていきました。しかし、行政の態度は変わることがありませんでした。

【市を二分した運河保存運動】

マスコミも、いろいろ書きました。それで、小樽市も、このままではいられないという思いがあって、北大の飯田先生に頼み、運河公園構想を打ち出しました。運河公園構想とは、運河の幅を少し残し運河公園の形にするという『折衷案』でした。しかし、私たちは、その『折衷案』をのみませんでした。やはり、全面保存をして欲しかったのです。

行政は、『折衷案』を出しておきながら、一方では埋め立てへと、手だてを進めていきました。ヘドロのたまった運河に、くいを打ち込みはじめました。私たちは、その横でシュプレヒコールをあげ、「運河を埋めないで」と叫びました。騒然とした中、作業員はくいを埋め続けました。その時、私たちは、「運河を埋めることができても、運河を守ろうとする私たちの気持ちは埋められるはずがない。どこまでも頑張ろう。」という思いをますます強めていったのです。しかし、そんな状況下で行政は、あくまで道路をつくろうとします。ついに運河を埋める方向へ進んでいきました。

最後に私たちが行ったのは、10万人署名運動でした。議会制民主主義の中では、議会で決まったことは市民の意思とされますが、直接制民主主義を行うことで、「本当に埋め立ててよいのか」を市民に問うことにしました。小樽市を50の地区に分け、ローラー作戦で1軒ずつ意思を問いました。それにより、98,000人の署名を得ることができました。当時の小樽市は、人口約15万人でしたので、半数の意思をとったわけです。ところが、市民運動は代筆を認めるとの下に、署名運動を行ったのですが、市役所は自筆でなければ認めないと判断しました。結局、市は、3万数千件だけを署名数と決定し、この数では市民の意思としては認められないとしました。

その後、運河公園構想に従って、運河の幅を埋め立て、予定よりは多少広く残して10mにはなったものの、レリーフや外えんをつくり、ガス灯をともし、シンボルロードとしての予算がつけられ、現在の姿になりました。

【地域に生きるという意味】

運河の幅は狭く埋められ、運河抗争はそこで終わったわけですが、私たちは運河保存運動を行う中で、大変、新しい発見をしました。

それは、小樽の町は、運河倉庫群の他に、すばらしい遺産がいくつもあることです。当時の私たちは、自分の町をよく知りませんでした。実は、辰野金吾(日本建築界の開拓者;東京駅や日本銀行本店、旧日本銀行小樽支店などを設計)や曾爾達蔵(明治期の建築家;東京海上ビル、慶応大学図書館、旧三井銀行小樽支店を設計)など、日本人の建築家を養成した工部省工学寮(東大工学部の前身)第1期生の作品が四つ、五つあるのです。小樽がそういう町なのだということ、そのような遺産が残っているのだというのに気が付きました。

運河保存というのは、一つのまちづくりなのだと思います。新たに発見した遺跡も加えて、小樽のまちづくりを考えるようになりました。かつての小樽の人たちは、一流の建築家による建物をつくらせる力を持っていたのです。このことに私たちは感激し、改めて敬けんな思いを持ちました。

私たちの先輩が、小樽という地域に過ごした姿勢は、単に自分の財産を増やすなどという個人的なことではなく、小樽の町を心から愛して、この町の次なる発展を思って生きたのです。『住んでいた』のではなく、『生きた』のです。そういう思いをもってこの地域にいたということが、『地域に生きる』ということなのだと、私は悟りました。それ以来、私は、『地域に生きる』ということの大切さをしみじみ感じながら、お話や小樽での活動をさせてもらっています。

町というものは、過去の人と今生きている人と、これからこの町に生きる人、すなわち、過去・現在・未来の人たちの共同の力によって、つくられていくものです。今、生きている我々は、次の世代のために何をするのか。そう考えると、私たちの次の世代に遺産を残すと同時に、私たちも先輩と同様に、『この地域に生きる』ような生き方でなければならないと思います。

小樽には残さなければならない多くの建物や遺産があり、それを継承することが今を生きる我々の仕事です。更に、遺産を継承する以上に、遺産をつくった人たちの小樽を思う気構えや心意気などの精神を受け継ぐことが、私は大事ではないかと思います。

私たちが生きている現代社会は、「自分がよければ」とか「自分のことだけ」など、個人的過ぎる風潮が、非常に強いと思います。自分が住んでいる町をもっと愛し、一緒に町に生きる喜びを共に味わい、その精神を貫いていくことの大事さを、私は運河から教えてもらいました。

【歴史が観光の魅力となって】

今、小樽は観光地となり、800万人が訪れます。かつて、このような現在の状態を誰が考えたでしょうか。観光の対象になるとは思いましたが、こんなに沢山の人が訪れる観光地になるとは思いもしませんでした。

ところで、小樽に来る人たちは、何を見に来るのでしょうか。小樽の良さは、『歴史』だと思います。すばらしい先人たちが生きた証が、小樽にはいろいろあります。それらを通して、地域に生きる人の『生きる言葉』を感じてもらえるような観光であって欲しいと思います。この点においては、まだまだ未熟な部分があります。しかし、市民のボランティアで、小樽の町の案内をする団体が三つ、四つ、現在あり、喜ぶべきことです。

若い人たちの中にも、小樽の歴史を調べようという動きが多くなりました。歴史研究会も頻繁に開催され、町の歴史を調べています。町並み散歩というのもあり、小樽市内の町並みを実際に歩きます。小樽市民であっても、自分の町を知らないことが案外多いと思います。

【まちづくりは、町を知ることから】

まちづくりという言葉をよく耳にしますが、まず自分の町をよく知ることからはじめなければ、まちづくりは出来ないと思います。その町ならではの遺産を発見し、それを守ることから始めなければならないと思います。それがなければ、『地域に生きる』意味にはならないと思います。

20年の年月が経つと、町はひと変わりふた変わりします。運河問題のあった当時に、一緒に活動していた方々の多くが既に亡くなってしまいました。時代は変わります。小樽の遺産をみんなで新しく勉強しあっています。自分の町はこんな町であるという自覚なしには、まちづくりはできません。小樽では、こういう勉強会を始めていますので、徐々に小樽らしい観光が可能になるのではと、期待しています。

現在、冬の観光として、「小樽雪あかりの路」があります。運河にキャンドルを灯し、とてもきれいです。これは、台湾など海外の人たちの関心も集め、参加希望もあります。

そこに生きる人たちが、まず自分たちの地域を大事に思わなければ、地域が発展することがないと思います。

【清田区の道づくりへの提案】

今日のフォーラムは、道について考えるというテーマですが、小樽の場合は道を考えた時には、行政がおぜん立てを決めており、そこへ私たち市民が入っても行政との距離があり、ついていけませんでした。ここ清田区では、何もない段階から、行政と市民が話し合っていますので、ずいぶん変わったものだと感心しています。

このような場を持っていることは、この町の人にとって幸せなことだと思います。役所の人も我々も同じ市民同士なのですから、話し合いを重ねていけば、りっぱなまちづくりができます。まちづくりの主役は市民であり、市民と行政が一つになったとき、初めて皆さんが喜んで住める地域になるのだと思います。

一つの提案として、この歴史の道を市民の道とし、愛称をつけたらどうでしょうか。そうすることにより、市民の関心の持ち方も違ってきます。

また、ある時期は市民の道として、車の通行を遠慮してもらい、イベントを行ったらどうかと思います。体育の日に子どもと母親が一緒にマラソンをするなど、自由に道を使えるようにすることも可能なのではないでしょうか。更に、道には、始めと終わりがあります。50m、100mなどの標識があると、走った距離間が分かり、よいのではないでしょうか。

【運河とともに歩んでゆく小樽】

私はこのたび、2008年日本建築学会文化賞をいただきましたが、これは私ひとりの賞ではありません。運河を残そうとした人たちの思いが評価された賞だと思います。運河を守ろうと当時残ったわずか10人足らずの人たちが、「自分たちだけでもやろう」というのがなければ、現在にはつながりませんでした。「自分が生きている時に、小樽運河を失くしては絶対にダメだ。なんとかしよう。」という気持ちの人たちがいたからこそ、現在の運河があるのです。

いくら過去に熱心な活動をしたとしても、人間は、時が経つにつれ記憶が薄れがちになります。現在、小樽運河を訪れる人たちは、ここで過去にどんな運動があったか、どんな人たちが運河を守るために活動したかを知りません。若い人たちが、騒いで通り過ぎていくだけです。それは、しかたのないことかもしれません。しかし、せめて小樽市民の人たちは、運河の存続に対して町が二分する事態があったことを覚えておいて欲しいのです。運河存続に対し98,000件の署名が集まりました。その数は、市民の半数以上です。一つのことに対して、市民がそれだけもえるという経験は、そう簡単に起きる出来事ではないと思います。小樽はそういう『燃えること』のできる町なのです。

運河問題で町を二分した記憶が、時間と共に薄らいできた20年後の今年、私は日本建築学会文化賞をいただきました。私にとってこの賞をいただいた最も大きな意味は、当時の小樽市が二つに分かれる程に燃えた思いを、今、また思い出すきっかけを作ってくれたことにあります。

明治~大正時代に繁栄をきずいた運河。戦後ヘドロをため、小樽の斜陽を如実にうつしだしたのも運河。今日、小樽観光の目玉となったのも運河なのです。小樽の町は運河と共に歩むでしょう。そして、運河からいろいろなことを学び、よりよいまちづくりを行う根底に運河があって欲しいと心から思っております。

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