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更新日:2011年2月7日

概要

遠く大雪山に源を発し、日本海にそそぐ石狩川。札幌はその河口近くの左岸に位置します。見渡す限りの原野だったこの地を開拓するのに、人々は石狩湾から石狩川に入り、内陸に進んでいきました。石狩から札幌へ、北区はその玄関ともいうべき交通上の要地として、札幌の街づくりが始まるはるか以前から開拓の鍬が下ろされていたのです。
札幌に開拓使が置かれ、島義勇判官によって街の建設が始められたのは、明治2年(1869年)のこと。篠路地区ではこれより早い安政6年(1859年)ころには、福島県出身の早山清太郎により開拓が進められていました。
札幌市の中心部に接する鉄西地区には、明治4年(1871年)、札幌最初の公園「偕楽園」が造られました。閉ざされた'私園'ではなく、誰もが自由に憩える'公園'としては、この「偕楽園」が日本で第1号とされています。また、明治36年(1903年)には札幌農学校(現・北海道大学)が現在の時計台の辺りから今の地に移転しました。

偕楽園跡

偕楽園跡

 

隣の幌北地区は、明治19年(1886年)、農場開墾のため開かれたのが始まりです。昭和2年(1927年)、この地域に市電鉄北線(北6条~北18条)が開通。昭和33年(1958年)には日本最初の路面ディーゼルカーが登場、昭和49年(1974年)、全面的に廃止になるまで北5条から新琴似駅前まで多くの人を運びました。
旧琴似町である新琴似、新川、屯田の各地区は、屯田兵によって開拓が始まりました。明治20年(1887年)には、九州の士族を中心に屯田兵146戸が新琴似に入植。明治22年(1889年))には熊本ほか6県の士族220戸が新琴似の北隣に入植、旧篠路兵村(現・屯田地区)となりました。札幌広しといえども「屯田」が正式に地名に残るのは、ここ北区の屯田地区のみとなっています。

札幌で一番早く開拓が始まった篠路地区では、明治11年(1878年)、札幌と石狩を結ぶ石狩新道が造られると北陸や九州、四国、中国地方などから農民が次々と移住してきました。この辺りは一大低湿地帯のため、年中行事のように河川のはんらんに遭ったり、凶作に見舞われたりしました。区内に残る数々の碑の前に立つと、フロンティア精神を貫き通し、開拓を進めていった先人たちの苦労がしのばれます。明治39年(1906年)には農民と士族の対立のため、創成川を境にして農民中心の篠路村から屯田兵中心の篠路兵村を分離しました。
これらの旧琴似町と旧篠路村は、昭和30年(1955年)に札幌市と合併後、急激に市街化が進み、新興住宅地として著しい発展を見せています。
昭和47年(1972年)4月、札幌市が政令指定都市に移行し、区制が施行されて北区が誕生。田園の静かなたたずまいを残しながらも、地下鉄、道路、上下水道などの都市基盤をはじめ、図書館や集会施設などのコミュニティー施設も整備され、快適で心のふれあう街として大きく成長しています。

新琴似屯田兵中隊本部

新琴似屯田兵中隊本部

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