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更新日:2023年12月18日

あつべつ今昔ものがたり

こちらのページをご覧になって、厚別の「今」と「昔」を重ね合わせてみてください。
厚別中央地域厚別南地域厚別西地域もみじ台地域青葉地域厚別東地域

 厚別中央地域~「信濃」~

現在の社殿明治39年当時の拝殿創建当時の信濃神社(明治30年ころ)
写真1枚目「現在の社殿」、2枚目「明治39年当時の拝殿」、3枚目「創建当時の信濃神社(明治30年ころ)」

-今-
 信濃神社は、厚別区、白石区川下地域の総鎮守として厚別中央4条3丁目に鎮座しています。
 厚別停車場通に面した境内には開拓当時をしのぶことができる記念碑などがあり、木々に囲まれた参道の奥に社殿がたたずんで厳かな雰囲気になっています。毎年9月の例大祭や七五三などの行事で地元の方々に親しまれ、崇敬を集めています。
 また、神社の近隣の小・中学校や交番、児童会館、橋、公園などにも「信濃」に関する名称が多く使われています。

-昔-
 信濃神社の創祀は、明治16年ころになります。現在のJR厚別駅付近に入植した長野県出身者たちが、三里川と厚別川の堤防近くの線路沿いの地に小さな祠を建て建御名方富命(文武の神・雨水の神)を祭ったのが始まりでした。
 厚別開拓の祖と言われる河西由造らは、長野県の各地から当地に入植した人々が心を合せて開拓に励むため、故郷信濃(長野県の旧国名)で最も崇敬されている諏訪大社の御分霊を奉遷して地域の精神の拠所としたのでした。
 しかしこの地が厚別川のはんらんなどで流されそうになったため、現在地に移転、明治30年本殿落成しました。その後昭和53年に建て替えられ現在に至っています(旧社殿は北海道開拓の村に保存)。このように大切に守られた「信州(信濃の通称)人」としての団結心、独立心が、その後の地域社会での活動を支えたのでしょう。

信濃神社御鎮座百年記念碑 碑文から
 明治三十年、長野県諏訪大社より出身者河西由造等先人によって、開拓・守神の心の拠所として、厚別の地に奉遷されてよりこのかた、御鎮座百年を迎えた。一世紀に亘り、祭祀の厳修、神社の護持に、神明奉仕の至誠を奉げて来た、先達の万古不易として、ゆるぎない精神・伝統の継承を担うべく、この佳節にあたり、有志・氏子一同参集所建設と併せ、記念の碑を建立する。
 平成十年九月吉日


 厚別南地域~「旧出納邸・雪印バター誕生の地」~

旧出納邸雪印バター誕生の記念館宇納牧場(昭和2年ころ)
写真1枚目「旧出納邸」、2枚目「雪印バター誕生の記念館」、3枚目「宇納牧場(昭和2年ころ)」

-今-
 上野幌1条5丁目、雪印種苗株式会社の敷地内には、2つの貴重な文化財があります。一つは、さっぽろ・ふるさと文化百選にも選ばれている「旧出納邸」です。もう一つは、「雪印バター誕生の記念館」です。
 旧出納邸のマンサード屋根は、大正時代に流行した札幌の代表的な住宅建築様式でした。厚別駅からの原料運搬は、悪路のため馬車で往復4時間もかかったそうです。昭和56年に当時の製酪所を復元し、現在の記念館として保存しています。

厚別区説明板より抜粋
「旧出納邸」は、この地で牧場を経営していた出納陽一氏の邸宅として、大正十四年に建てられました。同氏が酪農経営を学ぶためにデンマークに留学していたとき目にした富豪の家がモデルといわれています。

厚別区説明板より抜粋
「雪印バター誕生の記念館」は、雪印乳業の前身「北海道製酪販売組合」が、大正十四年にここにあった宇納農場の製酪所を借り受けて民間初のバター製造を開始したことを記念して設けたものです。

-昔-
 上野幌、下野幌、小野幌、北広島市の西の里、江別市の野幌は、かって「野津幌(のつほろ)」と呼ばれていました。語源は、アイヌ語の「ヌプ・オル・オ・ペッ(野の中の川)」に由来しているといわれています。「野津幌」が「野幌(のっぽろ)」と呼ばれたのは、この地域の一部が昭和25年7月に札幌市と合併してからです。野津幌川の上手を「上野幌」と命名したといわれています。
 この地が一大酪農地帯となったのは、大正13年に宇都宮仙太郎が娘婿の出納陽一とともに宇納牧場を開いたことがきっかけでした。冷害や凶作に悩まされていた当時、農業安定のためにはデンマークやアメリカの酪農を模範とした有畜農業が有効と考られていました。野津幌一帯は若き酪農家の研究の実験地であり、北海道で酪農経営を目指す者たちの研修の場ともなっていました。


 厚別西地域~「山本用水記念碑」~

山本用水記念碑山本厚三の功績をたたえ建立された謝恩之碑景昭和25年当時の山本地区の水田の様子(現在の厚別高校付近
写真1枚目「山本用水記念碑」、2枚目「山本厚三の功績をたたえ建立された謝恩之碑」、3枚目「昭和25年当時の山本地区の水田の様子(現在の厚別高校付近)」

-今-
 厚別西地域は、江別市大麻、白石区、JR函館本線に囲まれた厚別区最大の広さをもつ地域です。山本地区では、今でも畑や水田が見られます。厚別西4条3丁目の山本稲荷神社の境内にある「山本用水記念碑」「謝恩之碑」からは、山本地区の昔を読み取ることができます。

-昔-
 山本地区の開墾は、明治42年小樽の山本久右衛門が私財を投じて農場を開いたことに始まります。一面泥炭地で造田に大変苦労したため、排水溝の造成に尽くしました。これが発展し、今の山本川になりました。
 子の山本厚三も、父の意思を引き継ぎ、道路や排水路を整備し、広大な田畑の開墾を成し遂げました。また、昭和19年には戦後の農地解放を待たず、低価格で農地を小作人に解放しました。
 山本親子に対する地域住民の感謝の思いは、「本田」と呼ばれていた地名を「山本」と改称したことや、これらの「碑」に込められています。


 もみじ台地域~「熊の沢公園」~

現在の熊の沢公園もみじ台の水田風景開墾の様子(明治中期)
写真1枚目「現在の熊の沢公園」、2枚目「もみじ台の水田風景(昭和45年ころ)」、3枚目「開墾の様子(明治中期)」

-今-
 もみじ台地区は、昭和44年から55年にかけて札幌市が造成した住宅団地です。先に建設されていたひばりが丘(春)と青葉町(夏)の命名にならい、秋をイメージした「もみじ台」とつけられました。
 地域の住民が利用する地区公園として「熊の沢公園」があります。約74,000平方メートル(札幌ドームの1.4倍)もの面積の公園内には、芝生公園・植栽・あずまや・トイレ・水飲み場などがあります。また、開発以前の姿を知ることができる場所として、33,000平方メートルもの自然林も残されています。自然林の数カ所には、次のような説明板があります。

 この森は、シラカバ・ヤチダモ・ツリバナ・ヤマモミジ・メイゲツカエデ等多種の植物が繁る自然のままの森です。昭和四十四年札幌市がもみじ台住宅団地の用地として買収し、周辺の住宅地と調和したこの森林は、熊の沢公園として今後とも長く昔の姿のまま保存するものです。

-昔-
 「熊の沢」の地名の由来は定かではありません。「クマが出たから」とか「熊沢さんという人が住んでいたから」などといわれています。
 この地域は明治18年に福岡県から石松弥七と小ケ口石太郎が野津幌川沿いに入植したのに始まります。当時はうっそうとした森林地帯で、昼でも暗く感じられるほどの巨木が立て込み、地面には笹竹やカヤなどの雑草が生え、人の姿が見えなくなるほどに密生していました。開墾の手始めは、木を切って炭を焼くことでした。昼は蚊やブヨに攻められ、夜は蚊の群れの襲撃を防ぐために、背中にヨモギを乾かした束を背負い、火をつけていぶしながら身を守りました。
 明治20年代の終わりから水田耕作が行われるようになり、生業も畑作・稲作、また酪農へと変わり、のどかな農村地帯となっていきました。


 青葉地域~「青葉緑地」~

青葉緑地青葉緑地青葉町の高さのイメージ図
写真1枚目「青葉緑地」、2枚目「青葉緑地」、3枚目「青葉町の高さのイメージ図」
※青葉地域は標高がほぼ50~100メートル。札幌市中央区大通西1丁目のテレビ塔の展望台とほぼ同じ高さであるといわれています。

-今-
 青葉地域は、札幌市により昭和37年から43年にかけて大規模な宅地造成が進められました。青葉町4丁目から7丁目の「青葉緑地」には、地形や自然の樹木を生かした公園や散策路が設けられ、住民の生活に潤いを与えています。緑地の四季を彩るミズバショウ、クリ、ミズナラ、ホオノキ、そして春にはカッコウ、ヒバリなどの野鳥が鳴くという環境にあります。

-昔-
 青葉地域は野幌丘陵の一部で、旧国鉄千歳線上野幌駅(現在の厚別南公園)から北側に1.23平方キロメートル広がっています。
 この地域は、4万年前ころの支笏湖・恵庭岳、数千年前の樽前山が噴火したときに飛んできた支笏軽石流等が堆積したり、隆起したり、野津幌川の浸食作用によって形成されました。
 起伏にとんだ青葉緑地から、その面影が感じられます。団地開発までの様子について、下野幌小学校(現在の青葉小学校)発行の郷土読本『青葉』(37ページ)には、右のように書かれています。

青葉地下野幌だん地のむかしのようす
下野幌から厚別へ出るには、今のサンピアザふきんを通らなければなりませんでしたが、いちめんのぬま地で、通れませんでしたので、わり板をしいてようやく通れるようにしたそうです。青葉町のあたりは、なだらかな丘になっていて、畑には、リンゴやジャガイモ、やさいなどの作物がつくられ、ひくい土地には、水田もありました。
(昭和54年・札幌市立下野幌小学校発行)


 厚別東地域~「小野幌小学校」~

現在の小野幌小学校小野幌小学校の郷土室明治43年当時の校舎
写真1枚目「現在の小野幌小学校」、2枚目「小野幌小学校の郷土室」、3枚目「明治43年当時の校舎」

-今-
 厚別東地域は、西は野津幌川、東は野幌森林公園、北はJR函館本線、南は南郷通に囲まれています。昭和57年の地下鉄東西線新さっぽろ駅までの延長を機に、新興住宅地として飛躍的に発展してきました。
 小野幌という名は、地名や神社、公園、会館などに残っています。厚別東2条4丁目にある小野幌小学校は、明治32年に「小野幌簡易教育所」として開校した、厚別区で2番目に歴史のある学校です。

小野幌小学校の校歌

校歌は、昭和33年に開校60周年を記念して作られました。校歌を通して、地域の歴史や住民の思いが伝わってきます
-昔-
 明治22年に山口県から秋本槌五郎が入植して、本格的な開墾が始まりました。森林を開いて炭を焼く傍ら造田に努め、明治25年には水田の試作に成功しました。その後、新たな入植者を迎えて、瑞穂の池も作られ、水田を中心にした豊かな地域になりました。その教育の中心になったのが小野幌小学校です。冬の農閑期には青年団や卒業生も参加し学芸会を行い、地域の娯楽としても利用されていました。

 

執筆者:北星学園大学 阿部敏夫教授(平成20年6月時点)

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