ここから本文です。
手稲は、明治の初期に北海道の開拓を支える交通の要衝として開けた街です。開拓当時、主に小樽港を基点に物資の補給が行われていたので、軽川(現在の手稲本町)やサンタロペツ(現在の富丘)が、小樽港から開拓使本府の置かれた札幌への陸上輸送の中継点となりました。
このように物資の集散地区となった軽川やサンタロペツには人々が集まり始め、集落が形成されるようになりました。明治の中ごろになると手稲山口に山口県から、星置には広島県からそれぞれ入植者があり、農耕地の開墾を始めました。また、不毛の地であった前田や新発寒は、酪農を主とした農場へとその姿を変えていきました。
明治の終わりには、新川の川辺などで土器のかけらが発見され、昭和に入ってからも完全な形の土器が見つかり、本格的な発掘調査が行われました。その結果、約4,000年前に先住民族が生活していたことが分かり、この遺跡は「手稲遺跡」と名付けられました。
明治の中ごろには手稲山で金鉱脈が発見され、昭和10年代には鉱山が最盛期を迎えました。当時東洋一といわれた選鉱場をもち、にぎわいを見せていた鉱山も、戦後次第に衰退し、昭和46年に閉山しました。
昭和42年、手稲町は札幌市と合併。以後、新興住宅地が次々とでき、発展のスピードも急ピッチになりました。昭和47年に札幌市の政令指定都市移行に伴い(旧)西区となり、また、冬季オリンピック札幌大会が開催され、アルペン競技やボブスレー、リュージュ競技の会場となった手稲山は世界にその名を知られるようになりました。平成元年11月6日、人口の著しい増加に伴ってそれまでの西区から分区し、いまの手稲区が誕生しました。
手稲区は、手稲町時代からの市街地と昭和40年代以降開発された地域で構成されています。令和元年11月6日に区制30周年を迎え、区が誕生した当時は約105,000人だった人口が、令和5年1月1日現在では、141,953人(62,177世帯)となっており、分区から30年余りで30%以上も増えました。
手稲区では、手稲の歴史的な資料の把握、保存に支援を行い、区民が郷土の歴史にふれる機会を設けることによって、地域への愛着が深まり、まちづくり活動への参加意欲が高まることを目指し、ふるさと手稲歴史発見事業を行っています。
【会報はこちら】
令和6年度分
令和5年度分
令和4年度分
PDF形式のファイルをご覧いただく場合には、Adobe Acrobat Readerが必要です。Adobe Acrobat Readerをお持ちでない方は、バナーのリンク先から無料ダウンロードしてください。
このページについてのお問い合わせ
Copyright © City of Sapporo All rights Reserved.