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更新日:2017年4月18日

地区別の歴史

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 発寒

発寒の地名は、アイヌ語の「ハチャム・ペッ」(サクラドリ(=ムクドリ)のいる・川)からきているといわれています。

安政4年(1857)年、山岡精次郎・大竹慎十郎・永田休蔵ら幕府旗本の武士20人とその従者が、発寒に移住してきました。彼らは、稲荷通沿い辺りに入地し、農作物を栽培しながら発寒の開拓に当たりました。

その後、明治9年(1876年)、琴似屯田兵村の分村として発寒にも32戸の屯田兵村ができたことにより、人口の増加が進みました。しかし、明治37年(1904年)の屯田兵制度の廃止に伴って、兵役が満期となった屯田兵の多くが、開墾地として他に支給された給与地へ移転してしまうこととなります。

大正9年(1920年)には、発寒小学校前踏切から、新川間約2.6キロが琴似町道になりました。そして昭和30年(1955年)に札幌市との合併で市道となったとき、踏切から南側を加え現在の延長約3.7キロ、幅員5.45~20メートルの道路となりました。馬車がぬかるむ悪路も、明治以来の排水路も昭和42年(1967年)以降進められてきた歩車道の整備のおかげで近代的になり、沿線の街並みも変わっていきました。

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 八軒

八軒の地名は従来、山鼻付近から移住してきた東本願寺移民と呼ばれた人たちの戸数によるという説が有力でした。しかし、「新札幌市史」によると、明治4年(1871年)、今の南4条通以南に、開拓使が近在の入植者を集めて作った辛未一ノ(しんびいちの)村がその年のうちに移転、分散し、全50戸のうち8戸が八軒に移ったことに由来するとされており、現在はこちらの説が通説です。ただし、その頃、すでにこの近辺には中山富蔵、木村勘右衛門らが住んでいたとされています。

明治8年(1875年)、屯田兵の入植後、八軒に住み着いた人々は、屯田兵と共に琴似と八軒の発展に尽くしました。八軒一帯は農地として開発が進み、彼らの大部分が専業農家とされていますが、なかには一反、二反程度の小口耕作者や、炭焼きなどを副業としながら畑も作る、といった人々もありました。

大正14年(1925年)には北海道農事試験場(後に農業試験場に改称)が、八軒の琴似発寒川沿いに移転設置されました。その後、同試験場はさらに移転し、現在その跡地は農試公園となっています。

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 二十四軒

二十四軒の地名も八軒と同じく、東本願寺移民の移住戸数ではなく、明治4年(1871年)、辛未一ノ(しんびいちの)村全50戸のうち移転、分散した24戸の戸数に由来します。

当時の二十四軒には「シカの道」といわれる踏み分け道があり、これを人々も利用していました。後に道路となった所もあるといわれています。この辺りは、琴似屯田兵村付近と違い、札幌に比較的近い位置にあったものの、当時は一面原始林に覆われた未開地でした。

現在の地域の特色としては、中央卸売市場に近いこともあり、食品加工場や水産加工場が多くみられます。

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 西野

明治4年(1871年)、越後(新潟)出身の森三吉、平野平八郎ほか計5戸が「ベッカウス」といわれた所に移住開墾したのが始まりといわれています。ベッカウスとは、アイヌ語で山崎(山の尾のように伸びた地形が川の辺りまで迫っている所)という意味です。これから考えると、三角山の崎が北東に向かって発寒川に迫っている所を指し、さらに、川を隔てた一帯も含めていたようです。具体的には、現在の西野二股付近で、古くから部落名として使われ、今もなお、町内会の名称などに残っている昭和、中立と呼ばれている地域に当たります。

本格的な開拓は明治18年(1885年)、前鼻村七ら広島県人6戸18人が今の西野第二地区付近に移住したのが始まりといわれ、それ以後続々と移住者が増えていきました。彼らの功績をたたえて、西野の開拓は「広島開墾」の名で呼ばれています。

この地は、明治30年代に着手した用水計画の推進により米作が進み、後に「西野米」で世に知られる札幌で有数の米どころとなりました。苦心の末に発寒川や中の川から水を引いた広島開墾用水や西野用水と呼ばれる農業用水路は、まさに西野地区開拓の基盤でした。もみすりには水車が使われ、当時、100台ものもみすり水車があったといわれています。その水車は今も、手稲東小学校の「昔の道具展示コーナー」で見ることができます。また、五天山公園では復元された水車小屋が公開されています。

昭和20年代半ばごろからは、安定した収入が得られる野菜を作る農家が徐々に増えました。しかし、その後は都市化に伴って宅地化が進み、田や畑は姿を消していきました。

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 宮の沢

宮の沢は旧手稲町に属し、上手稲、中の川、追分といった通称の部落名が使われ、手稲富丘や発寒と地続きであることから、古くから多くの人々が、この地域を訪れています。和人たちの入地以前から、宮の沢付近にはアイヌの人たちも住んでいました。

この地域は、明治5年(1872年)に三木勉をはじめとする旧仙台藩白石城主片倉小十郎家臣の武士たち47戸の集団移住によって開かれたとされています。前年の明治4年(1871年)に佐々木重五郎という人の入地の記録がありますが、歴史上は片倉家臣の移住をもって手稲開拓の始まりとされています。宮の沢の地名は、この地に移住した人々が、中の川の沢地の一角に小祠(後の上手稲神社)をまつったことに由来するといわれています。

平成11年(1999年)に地下鉄東西線が宮の沢まで延長され、平成12年(2000年)には生涯学習総合センター(ちえりあ)が建設されました。

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 琴似

琴似の地名は、アイヌ語の「コッ・ネ・イ」(くぼんだ所)が語源です。明治4年(1871年)、札幌本府周辺の村名を付けるときに、開拓使が命名しました。

琴似は、明治7年(1874年)に制定された「屯田兵例則」により、翌8年(1875年)、旧仙台藩亘理領、旧斗南藩(旧会津藩)、旧大泉藩(旧庄内藩)の士族など198戸(翌9年(1876年)に3戸、11年(1878年)に7戸が分家補充され208戸となる)が屯田兵として移住し、本格的な開拓が始まった歴史的な地域です。屯田兵制度は、当時蝦夷と呼ばれた北海道の開拓と北方警備のために考えられたものです。以降、30年間のうちに札幌をはじめ道内に37兵村(琴似兵村の分村発寒兵村を入れると38兵村)が、次々と建設されていきました。

琴似地区が屯田兵村の最初の候補地に選ばれた大きな理由としては、札幌本府に近く、交通、通信の要衝地であったこと、また、生活に便利であったことなどが挙げられます。

琴似屯田兵村を中心とする一帯は明治39年(1906年)に琴似村、昭和17年(1942年)の町制施行により琴似町となり、昭和30年(1955年)に札幌市に合併されました。昭和47年(1972年)の区政施行に伴い、西区役所が設置され、昭和51年(1976年)に地下鉄が開業して地下鉄琴似駅ができ、都市化が急速に進みました。

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 福井

福井の地名は、福井県人の手によって開拓されたことに由来します。明治19年(1886年)に福井県から伊藤太治兵衛、鈴木善兵衛らが入植したのが始まりです。続いて翌20年(1887年)から23年(1890年)にかけて、石尾長左右衛門、添崎清助、山崎喜八らが、また、同30年(1897年)までの間に和田留吉、広部細次郎らが次々と移住してきました。

彼らは、炭焼きを主な生業としていました。他の移住者と同様に、その生活は非常に苦しく、家などは全く粗末なものであったとされています。屋根は柾(まさ)でふき、風で飛ばないように石を乗せていました。壁は、麦殻の束を二重に囲っただけで、極寒期の厳しさは例えようもないものだったといいます。明かりは、カンテラか二分芯のランプのため非常に暗く、後に五分芯、八分芯のランプが使えるようになったときは、大喜びしたそうです。

彼らの中には、自然の桑葉を活用して蚕を飼う人もいました。この養蚕は、開拓使の指導もあって、一時はこの付近の生業ともなりました。また、こうした農耕の閑散期を利用して、大部分の人たちは、収入を得るために造材山に入って労働に従事しました。

明治33年(1900年)には、奥地の「源八の沢」から水を引いて本格的な米作りが始められました。しかし、この水だけでは足りず、後に発寒川の本流から水路を造ることに成功すると、西野地区と同様の米どころとなりました。

近年は宅地化が進み、面影はみられません。

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 小別沢

小別沢は、西区山の手から山一つを越えて、大倉山の西に位置し、もとは盤渓地区(旧琴似町字盤渓)の一部として開かれた地域です。

小別沢の地名はアイヌ語の「ク・オ・ペツ」(仕掛け弓を置くの意)に由来し、古くは先住民の狩猟の場であったといわれています。屯田兵村設置後は、陸軍省の公有地だったものを、兵村の準備用地(訓練地)として借り受けていた土地でした。しかし、明治27年(1894年)に日清戦争が勃発し屯田兵が出征すると、これらの土地を有効に活用するために、ここで炭焼きが始められました。そのための炭焼き人夫を募集し、人夫頭も置くこととなり、同年、人夫頭として、この地に最初に住み着いたのが、青森県人の我満嘉吉という人です。その後、明治29年(1896年)に中村善次郎、翌30年(1897年)に福井県人の久保田三郎が入地しました。この年、山火事が発生し、焼け跡に粟をまいてみたところ、思いがけなくよい収穫があったため、これが契機となって畑作を試みる人が次第に増えていきました。

明治35年(1902年)ごろになると、戸数7戸、人口24人の小部落となり、農耕に力を入れる人も増えました。しかし、やっとの思いで田畑を作り上げたところに、明治43年(1910年)の春、またも山火事が発生しました。逃げ場を失った住民たちは、地面に穴を掘り、その中に入って上からぬれたむしろをかぶせ、難を免れたといいます。この山火事は1カ月余りも続き、辺り一面丸坊主になってしまいました。しかし、人々はこの災害にもくじけず、以前にも増して畑作に力を入れ、見事に焼け跡を農耕地としたのです。

現在は小松菜を主とした畑作地域となっています。

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 山の手

山の手の地名は、旧国道5号以南に開けた丘陵地帯としての土地柄から名付けられました。

明治初期、この辺り一帯は原始林と荒地でしたが、明治8年(1875年)の琴似屯田兵入地後、屯田兵の射撃訓練場となり、明治37年(1904年)の屯田兵制度廃止後は、ここにとどまり独自に開墾に従事した人々に払い下げられました。

山の手地区は、八軒、発寒など北部地帯に比べ、琴似発寒川や琴似川の上流に挟まれた位置で、比較的給排水など水利に恵まれていたので、稲作の歴史は古く、安政5年(1858年)には、後の石狩水田の祖といわれた早山清太郎が琴似川の水利を使って水田作りに成功しています。明治30年代に入って札幌近郊のリンゴ栽培が盛んになり、山の手地区では、大正6年(1917年)当時、すでに約2,000本のリンゴの木があったといわれています。大消費地である札幌が発展するにつれ、それまでの山鼻や豊平、白石などのリンゴ園は、宅地化により、次第に減少していきました。このため山の手の山麓地帯は、重要な果物供給地ともなったのです。

その後、住宅が立ち並ぶようになり、現在は閑静な住宅街として知られています。

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 西町

現在、西町と称する面積わずか1.1平方キロメートルのこの地域は、旧手稲町の東の一角を占め、字別でも東と呼ばれていました。東側は、発寒川を境として琴似屯田兵村と接し、西側は、旧仙台藩片倉家臣三木勉ら一行が入植した宮の沢とも近接した地域であるだけに、相当古くから人が住んでいたと考えられますが、明治中期以前のことはよく分かっていません。しかし、地形が川に接し、平たんなので、人々が魚を追って川をさかのぼったり、手稲山に入って狩猟するときの道筋であったことは、容易に想像されます。

明治の中ごろともなると西野、平和、福井などとの交通の要所として、商店街が形成され、木材運搬の馬追い人夫たちや、札幌本府への往来の客で大いににぎわったといわれています。

平成元年(1989年)、西区から手稲区が分区する時の住民アンケートに基づき「手稲東」から「西町」と改名されました。

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 平和

平和の地名は、昭和17年(1942年)にそれまでの手稲大字三村(上手稲、下手稲、山口)が改められたときに、地域の人々の理想や希望を表して付けられたといわれています。

明治17年(1884年)に山口県人の春木屋孝造らが今の平和第一地区に移住したのが始まりとされ、次いで同19年(1886年)には福井県越前の移民13戸が入地しました。それ以前にすでに何者かが開墾したのではないかと思われる形跡が残っていますが、詳しいことは分かっていません。一説では、この辺には明治2年(1869年)ごろに何人かが入地したといわれています。

移住者の増加とともに開墾も順調に進み、用水路の開削に力が入れられ、明治29年(1896年)、安井茂衛門、前原兼太郎たちの努力によって、右股用水路が建設されました。特に平和第三地区は標高が高い土地で、田畑を開くことは容易ではなく、そのうえ入植まもなく山火事にまで見舞われています。しかし、彼らはこの苦難をものともせず、逆にこれを利用してその後の開墾に生かし、やがて立派な水田を作り上げました。

明治35年(1902年)ごろになると、良質の米が相当収穫されるようになり、大いに繁栄したといいます。その後、大正末期から昭和初期にかけて平和のほぼ全域が水田となりましたが、今は福井と同様に宅地化が進み、当時の面影はみられません。

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